4月24日(金) K病院のK先生の診察


 朝、目覚めると則はたくさんの資料を用意してくれていた。が、私は、則が病院まで通うことの大変さや、費用のことなどから、ほぼ、S病院にすることを決めていた。S病院なら自宅と則の職場からは電車も1本で済む。別に乳房を全部とっても良いか、ということも考えていた。リハビリも私が頑張ればいいことだし。

 しかしながら、則の考えは更に温存法の方へ向いていたようで、昨日藤原さんから紹介されたK病院のK先生にすぐに電話するようにということだった。

 だが、私にはその前にすることがあった。校長に何と言って話を切り出そうか、そんなことを考えながら雨の中を自転車で学校に向かった。気をつけて、気をつけて、こういう精神的に不安なときは事故に遭いやすい、そう自戒しながら慎重に自転車をこいで出勤した。自転車で走りながら、校長に話す流れをほぼ作り上げた。

 校長が来るとすぐにその話をした。が、考えたとおりには出来なかった。頭の中ではきちんと整理されていたのだが、「実は、昨日乳ガンと診断されまして・・・」といったとたんに「なんとそれは−。」と絶句して私を抱きしめた校長に、不覚にもポロリ。その後、同学年のHさんと教頭と一緒に4人で今後のことなどを話し合った。とにかくすぐに役所へ連絡して手続きをとることにしてもらった。

 2時間目、空き時間(私は5年生担任なので、音楽などの専科の先生が担当する授業の場合授業のない時間が出来る)だったのですぐにK病院へ電話する。K先生を、と言ったら、あちこち探し回ってくれて、なんと本人と直接話すことが出来た。先輩の藤原さんの話では、看護婦さんに伝えるだけでよいと言うことだったので、そのつもりでいたのに。そこで昨日S病院で言われたことを話すとこれからすぐに来院するようにとのこと。まさか、今日の今日とは思わずびっくりしてしまった。電話の感じではすごく気さくな人のようだ。すぐに則に連絡して信濃町で待ち合わせをして一緒に病院へ行くことにした。則は今日は忙しくて抜けられないような話だったので、一人で行くつもりでいたのだが、またまた感謝。

 昨日も午後休暇で子どもは自習、今日も自習。「今日も帰っちゃうの?つまんないよ。」という子どもの言葉に、「ごめんね。」と心の中で手を合わせながら学校を飛び出す。こういう子ども達と、たとえ短い間でも離れて暮らすのかと思うと、自分の身体のとやかくよりも悲しい思いだ。運動会も移動教室も、遠足もこの1学期にあるのだ。その全てに私は参加できない。

 病院の受付でK先生の名前を出すとすぐに手続きをとってくれた。約束の1時より遅れること15分で私の番。それに先だって渡された説明書には、先生の考えが詳しく書かれていた。これで先生の人となりの輪郭が分かったが、ここで、この先生はもしかしたら、あのガン論争の先生ではないかと思い当たった。 

 診察は説明書に書いてあったとおり約5分で終わった。ここでO病院のA先生を紹介された。この二人は連携して温存法を実施しているとのことで、藤原さんに言わせると、A先生の技術はまるで芸術品なのだそうだ。

 A先生の病院へ連絡して、診察は来週の木曜日と決まった。これでその日までは普通に暮らせる。

 帰路、K先生の著書を2冊購入。更に紀伊国屋へ寄って別の本も探したが見あたらず、今日はこの本を読むことにする。


則裕の記録

 私はS病院を最初勧めたのは間違いであると、ほぼ思い始めていた。それに、K−Aペアは著名なタッグなのだというデータも、我が家から電車を乗り継いで約2時間という遠隔の地での入院を決断させる要素にもなった。最高の医療は受けたい、受けさせたい。ただ何れにせよガンと闘う状況に変わりはない。

 順さんに朝出がけにアドバイスしたのは、時間講師をとるにはどのくらいの日数休む必要があるかという点だった。勿論病気になった職員の保護を職場は優先すべきだが、職場の全体への影響も同時に避ける努力を、休む側としても一定考えておく責務があると思っているからだ。職業的に一ヶ月ということは分かっているつもりだが、最近は都教委もケチるので確認が必要と思ったからだ。(後で聞いたら案の定、嘱託が配備されているので、その分の時間講師時間数を削減されると言う回答をもらった。こんなリレー保育のような教育をすれば済むと考えているほどに現場を無視していると捉えればよいのか、或いはそれほどに財政が逼迫していると考えるべきなのか?考える視点の変更を願うばかりだ。)

 今日は午前中は都庁へ共済組合の年度当初の手続きに行った。審査を受けている間に順さんからPHSに電話が何回かあり、出るわけにも行かず、気が気ではなかった。ようやく審査が終わり、順さんにかけると、今日一時に約束したという。今日だけはちょっと日程が詰まっているので避けたかったが、こんな事で一生悔やむのもやなので、仕事を切り上げる。

 K病院に行き、私がK医師に質問したのは一点だけだった。つまりこれほどまでに成長が急なのだから、手術を急ぐ必要性があるのではないかという点だけであった。しかし彼の答えは、「おそらく『見落とし』でしょう」とのことだった。後から知ったことだが、この『見落とし』(どうやら業界用語らしい)率は結構高いのだ。しかしながら、人間ドックの婦人科部分の中心をなす乳ガン検診がこの様な実態であったとしたら、乳ガン検診のシステム自体をきちんと改善する必要があると感じた。

 K医師の本を信濃町の喫茶店で読んだ。全て真実であれば、恐ろしく不条理な医者の世界を再度垣間見たことになる。(私は昨年夏、不覚にもウズベキスタンから帰国した直後に腹痛を起こして救急車に乗った。あまり名を聞かぬ国からの帰国者で、大学病院さえも忌避したのだ。救急車の無線の会話には、患者は日本人かというものまであった。結局誰でも受け付けなければならない都立駒込まで、1時間あまりの迷走は続いた。)

 そこで、私は反論を知りたいと思い、新宿の紀伊国屋書店に行った。しかしながら、反論を見つけられないばかりか、乳ガンの本の中に温存法に触れていない本や唾棄すべきものとする本さえも、見つからなかった。

 Sという病院は、職域病院である。つまり、何万分の二(順さんと私)は我々も出資者なのだ。この事を想起すると、S病院の医者の振る舞いは、表面的にはむしろ好意さえも感じさせるほどスピーディーな対応だったが、納得行きがたいものがある。S病院構成者の半数以上が小学校教師であろう。その小学校の教師の七割程度が女性なのだ。しかも高学歴晩婚型だ。おそらくは乳ガンになる比率も高ければこそ、平均より低くはないはずだ。S病院の産科は、教師の母体保護という職域病院としての特性を生かし高く評価されているという。また精神的なダメージを受けることの多い昨今の教師の状況に対応したシステムをも持っている。だとしたら同じように、乳ガンについても今少し最近の技術を取り入れてしかるべきではないだろうか?さらに、インフォームド・コンセントに至っては無いに等しい一方的な決断。(こう書くとまだ手術が決まったわけではないと反論されるだろうが、少なくとも1/4法は否定、くりぬきに至っては説明することすらなく、全摘出を前提の説明はどう考えても納得がいかない。)手術に伴う一連のゴタゴタが一段落したら、然るべき抗議の手段をとりたいと強く感 じている。

 順さんの現状だが、本人曰く、少ししこりが小さくなったとのこと。検査で採取したからじゃないかと、いい加減な解説をしたが、正直痛そうで確かめるのを躊躇する。右胸を下にしなければ、眠れないと言うほどのことではなさそうで、休日なので彼女もよく寝ていた。


 ところでこの『則と私と乳癌と・・・』は、順さんが書き続けるという前提で、そして休暇が始まった時点で公開する(それまでに公開したらあまりに影響が大きいから・・・順さんは彼女のクラスの学級便りをもう3年前からインターネットに掲載している。それは当然彼女のクラスの保護者も一部見ているわけだから。)ことにして書き始めたものです。
 入院するまでには、デジカメも買って持参することにしました。それは、順さんの不退転の決意だと私は思ったからです。こうして乳ガンと対峙しましたという記録を残しておきたいという思いは、大切だと感じたからです。
 今ひとつ理由を言えば、インターネットというものは人格があるわけではないけれども、私が考えを変更するに至ったのはインターネットの存在無しには、説明が出来ない。だから、インターネットに人格があるとして、彼女もしくは彼に対して、私たちが得た恩恵を、ほんの少しでも良いから返していきたいとい思ったからです。
 今後苦しいことやひょっとすれば死と直面することもあるかも知れない。従って、確実に記録を残せるという補償はないが、順さんと私は出来るだけそう努力をしたいと思っているところです。