7月25日(月) トルファン クチャ      列車泊



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5.トルファン観光(2)

5.1 交河故城 0915〜1050
 2つの川に挟まれた船のような地形を巧みに利用して造ってある。かなり広い敷地だが、ここは自分の足で歩かなければならない。見学路はきちんと舗装されて、そこから見るようになっている。さすがにここは一大観光地と言った様相。(上の図にマウスを当てると我々が行った中の主な場所を示すことが出来る。
 交河故城は世界遺産に指定されていることもあり、整備が格段に進んでいる。順路図なども整備されており、城壁都市の多くがそうであるように、迷路のようになったいる道道を旅人を誘導する工夫をしている。
 交河故城は二つの河(ヤルナーズ河)に挟まれた島のような土地であり、切り立った土地はまるで軍艦のようでもある。天然を利用したようした要塞都市だ。その大きさは南北1.7q、東西300m、面積50平方キロメートル。麹氏高昌国を滅ぼした唐は、その西域監理をこの地に移した。
 入口より入る。それは交河故城の南門にあたるところ。上のだいたいの概念図で言うと、右側の河が交差した部分の少し下の部分。ちなみに最終目的地の「塔林」は左側の空白部分の中にひときわ大きく大きな正方形の中に4つの■と真ん中にぽつんとあるもの。
 交河故城は高昌故城のそれと違い、建物の建て方は、建て方というよりは堀方と言うべき様相を呈している。すなわち地下住居群となっており、また特徴的なのは、道に出入り口や窓を設けない作りになっていることだ。従って道は壁の中にあると言った風情だ。南門から入って台地に上り詰め、最初に見たのは官署跡。階段を下りていくと、庭のような所に出る。穀物小屋の先には井戸も見られた。感想としては、官署(ガバメントオフィス)というには、あまりにも小さいように思われた。統治の実験が僧侶等に多く割かれていたからなのだろうか。
 次に東門を見に行く。高さ30メートルの所に作られている。対岸に山羊の群れを望め、そこが緑多いオアシスになっているのがわかる。7000人が暮らしていたとも伝えられるこの要塞都市の食料供給源がきちんと存在していたことがわかる。対岸に至るには船なのか橋なのかはガイドに聞いたがわからなかった。東門脇には幾つかの井戸が見られた。(左の写真で、緑に見えるものは対岸のもの。中央にアーチ状になっている部分が東門跡で、現在は塗り固められている。順さんの左肩の少し下あたりに見られる半円形のものが井戸跡。現在は塞がれている。)
 次に大仏寺に行く。英訳がgreat monastery だから、大仏の寺ではなく、単に大きな寺という意味だ。つまり寺の名前は伝わっていない。交河故城最大の寺と言うほどの意味。南門から入り、交河故城の中心の大きな通りの中心の大きな通りの終点に位置する。(最初の簡略図で言うと、画面の中央から右方向に1本の道路〜筋〜があるが、その道路を左に行った突き当たりに長方形に囲まれたエリアがある。そこが大仏寺。)
 形式は、長方形の寺域の最奥に本殿?がある。寺域そのものは高昌故城のβ寺院よりは小さく、88×59メートルの大きさ。中心の柱の肖像の位置する部分も2段。左右は小さな僧坊になっており、ここで修行僧等が座禅をしていたと思われる。この部分は2層になっていたように思われる。なぜなら階段が残っているから。また竈(かまど)の跡など有り、その部分が火で変色していた。煙突も作られ、煙を外に出す工夫も見られた。
 大仏寺の高昌故城の細長い葉っぱのような形の中での位置は、丁度そのど真ん中にあたるといってよい。更に全体の4分の一ほど進むと、塔林(sutupa forest)に出る。中心に大塔があって、周りに100の小塔が25ずつ4区画に分かれ整然と並ぶ様は、ボロブドールを彷彿とさせるものがある。大塔はかろうじてその偉容を留めているが小塔のほとんどすべては破壊されている。大塔は四角形の基壇に4角に一つずつと中心に大きな塔の4つの部分から構成された塔で、中国に現存するもっとも古い密宗金剛宝塔と解説書には書かれている。この塔林の先は公開されておらず、聞けば墓地があったと言うことだが、あまり発掘が進んでいないようにも見えた。
 帰り道、南門脇にある交河故城文物陳列館によった。ここは交河故城をはじめとするこの地域の現在発掘している途中のものを含めた地域の紹介やその文物が展示されていた。交河故城の外の更に北の方には幾つかの墓地が確認されており、興味深く見ることが出来た。また交河故城の模型もあり、全体把握には、最初に訪れるべき所だったろう。

塔林


5.2 カレーズ 1100〜1130

 高い土地から下の町まで水を流す施設、いわゆる水道管。雪解け水を利用している。砂漠に穴が開いているのを見るのかと思ったら、その設備そのものを見るようになっていた。実は我々はこのカレーズの地上部分を見るのは今回が初めてではない。しかしそれがどこであったかいまだに思い出せない。その時は素っ気なくあれは井戸ですと言われておしまいだったのだけは鮮明に覚えている。だから、その地下やそもそもそれはいかなる構造のものなのかは、今回初めて知ることが出来た。・・・日本に帰って調べて、それがモロッコで見たと言うことがわかった。
 地下を掘って流れるようになっているそれは、もう人間の知恵の素晴らしさを現している。ただこの方式は、広く西アジアで採用されているというのだから、この辺りにも文化交流があったのかも知れない。

塔林 南門 大仏寺 東門 官署

5.3 バザール 1140〜1200
 ここのバザールにもいろいろな品物が置いてあった。どーんと山積みになっていたのは見慣れた光景だが、ここには食堂の一角があって丁度昼食の準備に余念がない。その様子を見ているとまさに今、生きている人間の活力を感じた。


5.4 列車 18:15 N946次 4号車(14、15、16)
 今夜も夜行列車。だが、18:00発なのに駅に着いたのは15:00。3時間もどうするの?と思っていたら、また有料待合室へ通された。今度はすごくいいソファーもあって貴賓室という名に恥じない部屋だ。一人5元也。勿論自分たちの負担。コーヒーを飲んだり少しウトウトしたりしながら時間をつぶした。こんなことなら交河故城でもう少し時間をつぶすべきであった。ガイド氏は何か案があるような口ぶりだったが、結局は待合室でただただ待った。待合室では、テレサ・テンの曲が流れ、わけても中島みゆきの「わかれうた」が何度も流れて印象深く残っている。でもこの待合室ほとんど我々だけのためにあるような、そして巨大な待合室だった。
 ようやくやってきた汽車はかなりの人が乗っていたが、この駅から乗る人の列もかなり長い。
 また4人部屋。造りは前のと同じだ。ただ、トイレはあまりきれいとはいえなかった。今日も我々は下。上には既に眠っている乗客がいた。
 この列車には食堂車!がある。この日の夕食は列車の食堂で。しばらく走って、7時半頃食堂車へ。ガイドさんに適当に頼んでもらった。
 前に中国のお酒が飲みたいといったのをよく覚えていてくれて、それも頼んでくれた。美味しく飲んだが、飲みきれなかったので後で飲むことにして持ち帰った。(ところがこれは、飛行機で移動するときに機内持ち込み禁止ということで、係官に取り上げられてしまった。)部屋に戻ると、先の乗客が目を覚まして他の席へ移っていったので、ビールと瓜で宴会をした。
 左の写真はその食堂のメニュー。だいたいのものが20元以下であることがわかる。ガイド氏は高いと言っていたが、たぶんその言葉はその通りだろうと思う。そんなに豪華にテーブルに広げて飲み食いしている人達はいなかった。面白かったのは、壁に「40度以上のお酒は駄目」と書いてあったこと。ちなみに我々が飲んだのは38度。結構度数があった。食事はガイド氏のあまりうまくないという言葉ほどはまずいとは思わなかった。ただこのガイド氏、あまりお酒を飲めないので、そう言う意味では男性ではあったが、則としてはつまらなかった。
 深夜目を覚ますと何処かの駅に着いていて、なにやら騒がしい。上に寝ていて出て行った人が、その寝台にどうやら途中から人が乗り込んできたようで、そこで一悶着あったらしい。結局その人は戻ってきた。我々はその人の寝台にこれ幸いと荷物をあげていたので、また降ろさなければならなかった。則などほとんど寝ぼけていて、ガイド氏がほとんどその作業をしてくれた。 

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