第三日目(3月28日)
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今日は最初に朝起きて、嫌がる順さんをつれてホテル付属の「温泉」へ行く。
韓国の「温泉」のことはいろいろ書かれているので、あまり注釈を加えないが、ホテルとは別個の銭湯と思えばよいだろう。従って、軽装でも良いが浴衣スリッパで出かけることは出来ない。ここはホテルに宿泊している者は無料。入り口でキーを見せて、そこで男女別れ、さらにその先の受付で、ルームナンバーと氏名を記入して入る。そこからはオンドルになっているので靴を脱ぐ。則は靴をそこに置いたまま入ったが、地元の人は靴を持って入っており、鍵を渡されたそのロッカーにも靴置きとおぼしきものがあるので、そのことに気づいて取りに行くと、既に靴はなく、店の人の方を見るとおもむろに靴を出してきてくれた。どうやらしまっておいてくれたらしい。
湯舟は日本のと比べると大きくて、温度の違うのが3つもあり、サウナやあかすり台と見られるベッドのような物もあった。朝のせいか、人が少ないのでゆったり入ることが出来た。前に調べたとおり、脱衣所には散髪屋もあった。
風呂には6時から20分ほど入り、部屋に戻って荷造りやら一休みやらして、7時に朝食に行く。朝食は昨日に引き続きバイキング。
定刻に少し遅れて8時35分出発する。最初に百済の終焉の地扶余へ向かう。9時55分着。
少し坂を上っていくと、扶余の終焉の地の城址公園の入り口についた。早い話、山城だ。 ここでしばらく、現地ガイドから日本語の講義。それは古代日本がいかにこの地と関係が深かったかということだった。聞いた話は、この扶余の町の古名称「くま」に始まる。 そういえば、この町のガードレールなどに熊が描かれていた。その他の、ハングル語と日本語の類似点。まぶしいの「ま」は目のことであることは周知のことだが、後半のブシイは光り輝いてまぶしいという今も使われている韓国語。相撲で言う、ハッケヨイは、韓国語では「さあ始めましょう」の意味。御輿を担ぐときのかけ声のワッショイは「いらっしゃい」の意味。つまり神様いらっしゃいと言うことらしい。一番最初を意味する日本語の「ハナ」は韓国では1を現す。「くだらない」というのは、つまり当時日本にとって先進国だった百済にさえないものは、つまり百済にないようなものは、つまらないものだという意味なのだそうだ。
入り口からアップダウンを繰り返して、10時35分、落下岩の上に立てられた百花亭という東屋に到着。先にも書いたように百済終焉の地のここでは、唐の軍勢に追いつめられた百済の女官たちが、チョゴリを頭にかぶり怖さをふりしぼり、断崖絶壁から飛び降りたという悲劇のあった地で、その飛び降りた女官たちの様が花びらのようだったことからこの地がそう名付けられているという。
それから、皐蘭寺(コランサ)へ。丁度法要が行われていて、読経が南無阿弥陀仏と全く日本と同じ読みなので、文化はつながっていることを今更のように実感した。ここには聖水が湧き出していて、時の皇帝に献上したのだそうだ。その際、間違いなくここの水ですということを証明するために、ここにしか生えないという皐蘭草をその水に浮かべたのだそうだ。我々も飲んでみたが、ひんやりしてまあ美味しかった。ことさらの感激はなかったが、同行者たちはいろんな味があって、いろんな成分が混じり合っているようで、美味しいと言っていた。
その後、落下岩の断崖絶壁の様子を見るために遊覧船が出ているというので、少し下って船着き場へ行く。11時10分から15分程度の乗船だが、全員に見られるように、その下でゆっくり旋回して見せてくれた。日本語の解説付き。船の上から絶壁を眺めると、飛び込むと途中で引っかかりそうで、文字通りの断崖絶壁ではないが、その悲劇だけは高さから伝わってくる。
船は出発点ではなく、少し下ったところの発着所へ着いた。そこでバスが待っていた。
それから向かったところは昼食場所。といっても、バスに乗ったと思ったらすぐの所だ。11時35分にはもう座っていた。今日のメニューは則のお待ちかね、参鶏湯。日本では順が気持ち悪がって食べさせてくれなかったものだ。幸いなことに、最後にそこへ入った我々のために、既成のテーブル数では狭いという理由で新たに一席設けてくれた。例の付け合わせは4人分と一緒の量なので、にんまり。
さて、そこへ出てきた参鶏湯。二人で1羽かと思ったら、なんと一人1羽なの。どんぶりの中にそれはかわいそうな形で入っていて、それをぐちゃぐちゃにかき混ぜて食べる。勿論鶏そのままだから、軟骨とか骨も多く、順は食べると言うよりそれを探すのに夢中になっているようだった。味は淡泊で、自分で塩こしょう、キムチなどを入れて味付けする。初めのうちは感激しながら食べていたが、さすがに量が多くて最後は飽きてしまった。
参鶏湯には朝鮮人参酒というので注文したのだが、そんなものを普段頼む人はいないと見えて、うまく手に入らなかった。というより、我々が頼んだものを、頼んでもいない隣のおっさんが、さっと手を挙げて取ってしまったのだ。飲んべえには負ける。でも、コップ一杯で千円もしたので、よしとするか。
そこを12時30分に出発して、一路海印寺を目指す。かなりの長旅になる。途中、14時25分からサービスエリアで休憩(20分)して、やっと16時40分に着いた。といってもすぐに見学ではなくて、さらに奥へ行くために、マイクロバスに分乗して、目的地へと行った。
【韓国世界文化遺産−その3−】16時50分にようやく写真で見た海印寺へ着く。思ったよりも奥が深くて始めの門を通してずっと奥まで見える。海印寺の海とは釈迦の海のような広い慈悲の心をあらわすとか。そもそも海印寺そのものが上空から見ると船の形に見えるように作られていると言うことだ。途中誰かが杖を指したらそれが大木になったというような木を見ながら山門をくぐっていく。(右は山門の一つ。掲げられている文字は「海印叢林」。前を行くのは韓国の方。)
最初に、高麗時代の石塔を見る。これは国宝だと言うことで、先についた金属が風にゆられてなっているのが印象的だった。しかし何とも全体がこけなのだろうか、でも黒っぽいもので、もう少しキレイにしておけばよいのにとも思う。(写真でも黒い華美のようなものが確認できるだろう。)
しかしながらなんと言っても、海印寺のメインは世界文化遺産に1995年12月に指定された高麗八万大蔵経と呼ばれるお経の版木。ただ実際はその姿を見ることはあまりかなわない。ベンガラ格子のような窓からのぞき込むだけだ。一枚だけ、おそらくはレプリカだろうものが、その覗き窓の脇に掲げられている。それとてガラス越し。当然版木だから逆さ文字になっているが、お経はハングルではなく漢字で書かれているのは日本と同じ。ともかくこのお寺は堂宇が一直線に上へ上へと伸びている寺だった。帰り際に解説の本(日本語)を買う。(この角度でしか一般には撮れないから、みなこの角度の写真になっているが、蔵の中の様子。)
その後下っていくと、丁度一日の行が終わった?といかんじで、大きな太鼓を打っている場面に出くわした。そのリズムは、日本の神社のリズムの取り方にきわめてにていた。これもルーツはここか?と思わせるのに十分だった。
17時55分夕食。海印寺を再びマイクロバスで下ってくると、降りた駐車場に我々のバスがいない。マイクロバスもそこを通過していく。どうなっているのだろうかと不思議に思っていると、やがて一軒の店の前に停車する。招き入れられると、そこはレストランのようになっていて(宿泊も出来る施設のようだ)、夕食となった。
夕食は山菜定食ということで、三頭山荘のような感じのもてなしだ。数を数えるのを忘れたが、30品目は優に超えていたように思う。その半分以上はキムチになっているから、何のことはない山菜定食というが、キムチ定食と言っても良い。相変わらずここの物も、豆は固いので、則には歯が立たない。水割りジンロの小瓶を飲む。食べ終えて店の前に出ると、向の店で飴などを売っていたので、それを購入。18時50分出発する。バスは暗くなった山道を駆け下りて、19時10分再び高速に載った。
20時25分サービスエリアで休憩。どうも前に座っていた子供が尿意をもようしたのであろう。予定外にバスはサービスエリアで休憩をとった。韓国の高速道路のサービスエリアは日本のそれとあまり大差はない。イタリアに行ったときのオートグリルのような華やかさはないし、もちろんアルコールも売っていない。強いて言えば、それは純粋に休憩の場所であって、したがって食べ物類が充実していて、日本食などもある所もあり、その反面土産物のようなものを売るスペースはない。売店のスナック菓子と飲み物が中心。
サービスエリアからはすぐに高速を降りたが、その後が長かった。高速を降りてから30分以上乗ったであろうか、ようやく21時20分ホテル着。
ところでその道中、既に暗くなっていたからその見事さは定かではないが、延々10分くらいも桜並木が続いていた。その見事さは、丁度開花を迎えていたので想像がつくのだが、日本の桜の名所に匹敵するだろう。長さでは北上川や比内河も負けるかもしれない。ただ若木が殆どで、老木の茂るような見事さにはかける。北海道の登別温泉へいたる道の両側の桜程度の若さか。
チェックインや部屋に戻ってもバスの水が流せないなどのトラブルもあって、10時30分過ぎに就寝。
慶州コーロンホテル。特1級のホテルだというが、昨日の方が広くてゆったりしていた。(写真はホテルに着くや、売店に走った順さん。ここで土産を購入。)