第二日目(3月27日)

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 旅も早二日目。意外なほど時間が速く経つ。今回は6日間というが、隣国に行ったにもかかわらず、他の国と同じように実質は4日間の旅程だ。朝6時過ぎに目を覚ます。昨日目覚ましをセットしたけれども、スイッチを押し忘れて、それでも自力で目覚める。

 7時から朝食。バイキング方式だった。韓国風なのは海苔くらい。あと箸がなくて苦労した。食事の後、近所のセブンイレブンへ。品揃えは日本のそれとほぼ同じだ。ロッテの水2リットルが1000W。高麗人参のガム300Wなどを買う。この高麗人参ガムがあとで思わぬことに。というのは、そのにおいがかなりきつくて一緒にしておいた飴やガーナチョコレートに移ったからだ。

 さてバスは定刻の9時に出発。バスは道中の半分以上漢江(ハンガン)沿いに走る。この川は北朝鮮からの侵攻に備えて至る所に鉄条網やトーチカなどがある。現地のガイドが強調していたのは、あくまでも現在は停戦中だと言うことだ。かつては3年、今は2年あまりの兵役があり、除隊後も予備役として使え、その後も自警的なものを含めた組織に45歳までは仕える。予備役段階では毎月15日の正午から2時間ほど空襲時の訓練などを受ける・・・という話を聞きながら、10時40分にやっと江華島に入る。(写真は鉄条網と監視小屋。)

 江華島は日本人にとっては微妙な島だ。明治時代に鎖国政策をとる朝鮮政府に軍隊を派遣して、丁度ペリーの逆をやるような形で開国を迫り不平等条約を結ばせた、その土地だ。そして現在は北朝鮮とその島の4分の3の海岸線を対峙させる停戦ライン最前線の島でもある。軍隊も精鋭が派遣されている。

 【韓国世界文化遺産−その1−】11時から11時20分までドルメン遺跡を見学。日本で花輪の環状列石を見たことがあるが、これも古代の墓と言われているもので、江華コインドル遺跡とも紹介されているもの。また日本語では、支石暮といわれるもの。韓国全土には3万ともあるといわれるもののうちで、かなり保存状況の良いものがここ江華島にあり、また韓国最大の北方式支石墓とも言われている、それを見学した。実際のところ、もっと沢山のものが群れをなしてあるものと思っていたので、その大きさには、石舞台同様に驚愕されるものがあるが、圧倒的な物量間で迫るというものではない。もちろん石舞台と比べようもないほどに古いものだが。2000年12月世界文化遺産指定。(左がそのドルメン。支えている石が傾いているが、これが特別ではない模様。韓国の子供が引率者に連れられてバスできていた。)

 次いで11時55分から12時40分まで伝燈寺を見学。ここは372年の創建と伝えられる韓国最古の寺。堂宇がいくつかあるが、その中のどれが最古のものなのかは聞き漏らしたが、どうも感じとしては創建当時からのものがあるのではなく、何回か立て替えられているようだ。伝燈寺と呼ばれのは、高麗忠烈王の王妃の公主が献灯したと伝えられているところから来ているらしい。現地ガイドが強調していたのは、この寺の屋根のスロープの形状だ。中国のように跳ね上がることなく、日本のように直線的(この意見にはいささか異論はあるけれども)でもなく、その中庸を行く優美な曲線と表現し、その優美な曲線は民族衣装であるチョゴリにも通じるというもの。ここで、我々二人の干支のお守りを、売り子にハングルで書かれているのを想像して確認してから買う。昨年夏にチベットへ行ったときも同じように干支のお守りをホタラ宮で買ったが、こうした楽しみが出来るのはアジア地域の特徴でもあり、それを楽しみと感じさせるのは私たちもまたアジアの一員、アジア文化の果てに存在する国の人間であるからだろう。(伝燈寺の入り口。右の石段を登り建物の下をくぐると境内に出る。この建物の内部は売店になっている。)

 その後境内の店で山菜ビビンバを食べる。知識としては理解していたが、ここでビビンバの正しい食べ方というか、それが何であるのかということを理解した。ビビンバとは混ぜご飯のことなのだ。
 そしてまず説明しておかなければならないのは、韓国におけるご飯のことだろうか。ご飯は、現地の子供たちの団体も食べているようなところなので日本人バージョンではないと思うが、きわめて日本的なかんじ。米もジャポニカ系か。粘りのある米だ。そのご飯は、銀色の金属容器に、これまた金属のふたをして出てくる。当然炊きたてのご飯は熱いから、現地の人もそれを供する場合には軍手のようなもので運ぶ。茶碗でない分、容器に厚さがないから外見で見るよりは量が入っている。
 で、ビビンバだが、日本で我々が食べているものは、どうみてもどんぶりご飯の形状のものだが、少なくともここ伝燈寺で食べたものはそうではなかった。どちらかといえばラーメンどんぶりのような開口部の開いた器に、山菜の具と卵焼きなどが入っている。そこにまず唐辛子味噌を適量かけ、そしてくだんのご飯をそのどんぶりにあけ、その上でかなりよく全体をかき混ぜるのだ。現地ガイドの指示では、白色を無くすようにせよとのことだった。辛さは入れる辛子味噌の量で調節できるが、いずれにせよ全体がまぶされるわけだから、全体は赤くなり辛いことになる。したがって、今回山菜ビビンバと言うことで山菜がそこには混ざっているわけだが、それぞれの味をここに確かめるという風情ではない。(かき混ぜたあとの状態。実際の感じはもう少しキムチ色している感じ。)

 【韓国世界文化遺産−その2−】13時15分に出発して15時25分、水原城に到着。16時15分まで見学。
 ここの由来は、ソウルにあった朝鮮王朝の第21代王の話から始まる。当時の王の寿命は40〜50くらいだったそうだが、彼は比較的に長生きをして80代までその座にあったという。当然に家来たちもその座にあり、その権勢の延命のために本来第22代王になるべき皇子を殺害してしまった。その墓をこの地に作ったことに始まるらしい(一説によればもともとはソウルにあったとも言う)。第22代には誰が着いたかと言えば、21代王の孫が着座した。つまりは、22代はこの水原の地は、王の父の墓のある土地となったわけである。当時の朝鮮は(たぶん今もその色は濃い)儒教思想、なかでもその思想のうちの「孝」を重んじる国だったので、国政の中心も当然ながら、そしてたぶん旧来のうるさい重鎮たちを回避する意味もあったのだろう、水原に移る結果となった。そうして形成されたのが、水原城である。
 この水原城が1997年12月にユネスコ世界遺産に登録されたわけだが、その前後に修復が行われた。その修復には、ここが比較的に近代のもの(1796年9月完成)であったこともあり、詳細な城郭の設計図があったことが幸いしているらしい。ここいらあたりは、半ば想像で造り上げた首里城のそれとは、同じ世界文化遺産とはいえ事情がだいぶ違うように感じもしたが、ただ修復されていることだけは確かで、全体が新しく、「遺産」という表現にはいささかまだ時の経過の助けが必要にも感じた。
 で、この水原城の特徴は、丁度西洋の城郭都市のような構造にあるということだ。中に町も田畑も存在したようで、その延長は5キロを超えるものとなっている。ここの整備は、世界遺産への指定が早かったこともあろうが、かなり進んでいる。城門には巡視の兵士の格好をした人を配置したり、公衆便所を整備したり、インフォメーションセンターを置くなどされていた。日本語の無料の解説書まであった。また北門は今も工事中であった。

 高速を通って宿泊地を目指す。途中、サービスエリアで17時25分から40分まで休憩。栄養ドリンク剤を購入。韓国にはコンビニにも、サービスエリアにも実に沢山の種類の栄養ドリンクが売っていた。18時40分から夕食。しゃぶしゃぶの予定がブルコギに変更。マッコリを飲む。日本のどぶろくのようなものと思えば間違いはない。ホテルはすぐそばで19時30分には到着。(写真は今日もおかずというかつまみが沢山並んだ、ブルゴキコース。牛肉の煮込み料理と言った感じ。)

 宿泊は、ユソンオンチョン(儒城温泉) 儒城観光ホテル。 「泉質]泉温 42〜55度のアルカリ性単純ラジウム泉で、皮膚病・神経痛・リューマチ・糖尿病・婦人病に効能があるという。もっとも町中にあって、外へ出れば車が沢山は知っているようなところ。

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