1995年1月17日5時46分、阪神、淡路地区は直下型地震という未曾有の災害に見舞われました。ここに収録した文章は、神戸市立福住小学校事務職員「木村信哉」さんと済美養護学校事務職員本川との電子メイルのやりとりを中心としたものです。学校事務職員の目から見た神戸や神戸の学校が置かれている実態を、防災の日によせて公開させていただきます。(福住小は阪急三宮より梅田方向へ二つ目の王子公園駅下車数分)木村さんとは10年来の間柄です。本川が勉強に木村さんを訪ねたことに由来します。
また、最近では平成3・4・6年度の文部省の委託研究「学習用ソフトウェアの開発改善等」を全国公立小中学校事務職員研究会の学校事務電算化委員会のメンバーとして参加していました。
この縁有って、この電子メイルは成立しています。元々、電子メイルは委員同士の連絡やプログラム交換を目的として行われていたものです。
皆さんも、PC−VANやニフティーといった大手VAN業者の掲示板等を通じ、家族や知人の安否が確認されたという報道を耳にした事と思います。木村さんの安否も、きわめて早い時期に、新潟にいるメンバーの1人「山田勉」さんの努力によって確認されています。このことも今後の震災対策を考える上で、重要な知見であると思っています。以下の文章は「木村」さんからの電子メイルによるレポート等を中心に、メンバーの電子メイル等をも含め、原文にできるだけ忠実に本川が再構成したものです。従って、編集による誤字脱字等は全て本川の責めに帰するものです。また、時間的に若干前後している部分がありますが、その方が読みやすいだろうとの、編集上の配慮です。
最後に、この文章が現在の私たちの生活の反省を促し、今後の震災対策を中心とした防災対策・計画と言ったものに生かされることを念じて止みません。追記:個人情報に属する部分も多数含まれております。取り扱いには充分留意してください。私としては、偽らざる実態を皆様方に示し、そして参考にしていただければと考え、原文に忠実に再構成しています。
「本川」から「元全事研電算検討委員(以下元委員)」宛
1月17日20時53分
(本川は朝の時点で木村さん宛に電子メイルを出したがその記録は残っていない)
朝のニュースを見た時点では、亡くなられた方千人を越える大惨事になるとは思っていませんでした。ただ、地下鉄の駅が電気が消えているが電車が走っているかどうか判らないという状況が報告されていたので、かなりの大規模な地震だと思っていました。
取り合えず朝の時点で地震のお見舞いのメイルを出しておいたのですが、帰宅してその惨状が明らかになり、東海沖地震が心配される関東地域に住む者としてとても他人事には思えない気持ちで、TVの映像を見入っている次第です。
木村さんは大丈夫なのでしょうか?彼の学校は老朽化した学校だと記憶していますが、学校の方も心配されるところです。避難場所にでもなっているのでしょうか?お見舞いを申し上げるとともに、何らかの形での援助が可能であれば各位と協力していきたいと考えております。
「丹治氏(元全事研電算委担当理事)」から「元委員」宛
1月17日18時40分
1/17早朝の地震は、神戸を中心に物凄い被害(死者2000人にもなろうという)をもたらしています。午前と午後に内田さん、野村さんそれぞれから連絡がありました。神戸市立福住小学校勤務の”木村さん”の様子について本当に心配です。
御自身・御家族については、無事であると思いますが、お住居や職場のことで多忙を極めている中では、とても電話差し上げることも出来ません。とりあえずMAILでお見舞と、出来ることを手助け差し上げたいと思います。MAIL自身は電子私書箱ですので、電話・FAXと異なり直接木村さんには御迷惑とはならないと思います。木村さんのNIFTY-IDは、○○○○です。出来れば、現在のところMAILに限って連絡してみてください。但し通信回線は、現在大変混雑しています。
「山田氏」より「本川」宛
1月18日20時14分
MAILを送っていただき、大変ありがとうございました。木村さんの安否が非常に気になるところですが、本川さんの方で何かわかりましたら、また教えて下さい。
何の力にもなりませんが、木村さんの無事を祈っています。
「(新潟)山田氏」より「元委員」宛
1月23日17時46分
ご無沙汰しております。
ニフティサーブを利用して、神戸の木村さんの安否がわかりましたので、お知らせします。奥様が福住小学校に勤務されている○○さんという方から私に届いたメールを下記に転載します。とりあえず元気だとのことですので、一安心です。
それではまた、連絡いたします。
「芦屋市在住:○○氏」より「山田氏」宛
1月23日11時28分
山田様、○○と申します。芦屋市に住んでおります。妻が、福住小学校に勤務しております。木村様には、お世話になっているようです。芦屋市も、甚大な被害で、ご存知の通りライフラインの復旧の目処がたたず、現在、大阪の私の実家に避難しております。子供も、地元の学校に転入させて、私達夫婦の身動きがとれるようになったので、妻は、今日から福住小学校の方へ出向くようです。到着するのは、いつになるかわかりませんが、状況は、できるだけ早くお知らせします。
逆に福住小学校関連の情報が貴方に入っていましたらお知らせ下さい。
「芦屋市在住:○○氏」より「山田氏」宛
1月23日15時51分
山田様たった今、妻より現地入りの報告が入りました。木村さんは、元気だそうです。ご安心下さい。ただ、パソコンが動かないそうです。かわりにメールを・・ということで、メールさせていただきます。福住小学校の方は、芦屋・東灘に比較して、割合被害の度合いがひくい??ようです。まあ、何ともいえませんが・・芦屋の状況も少し、お伝えしますと、「阪神高速道路」が500メートル倒壊した現場と私の家は、直線距離にして1キロそこそこですが、私の家は、幸いにして、テレビがラックより2台落ちて、本箱が1つ倒れた程度でした。食器も2〜3枚壊れた程度です。活断層の影響か、非常に幅の狭いエリアに被害が集中しています。また、わかることは、ご連絡します。ただ大阪に避難していて、パソコンが使えません。(職場のものを使っている。)リアルタイムにご返事できないのが、残念です。
「本川」より「元委員」宛
1月24日7時16分
木村さんが無事であるとのこと、ひとまず良かったと思います。
彼とはポートアイランドにある港島中学に勤務していた頃からのつきあいです。10年近くになります。まだ神戸の電算システムが動く前の港島に1回、現在の福住に2回おじゃましています。遠隔の地にいるとはいえ、彼とのつきあいは長くまたご厚情をいただいています。その意味で今回の山田さんからのメイルは、非常に嬉しかったです。5千人を越す犠牲者、そして体力的にも精神的にも限界にきている30万人の被災者、その中で木村さんはあの包容力で復興に全力を傾けられていることと思います。無事を祈ってきたわけですが、これからは彼のそうした活動にかげながら応援していきたいと思います。
私の学校でも教職員やPTAが、街でも、そして勤務先の自治体(杉並区)でも義援金活動が始まっています。いま私たち旧電算化検討委員にできることは何か思い浮かぶことが具体的にはありません。さしあたり私は山田さん経由のメイルで感じたのは、木村さんのコンピュータを回復させてあげたいということです。2月に研修会を東京で行いますが、その謝金は少なくとも木村さんへのカンパにしたいと思っています。今はそれくらいしか思いつきません。もう少し事情が好転したら今はあまり使っていないパソコンを送ることも考えられますが・・・
とにかく山田さんの努力に感謝し、何より木村さんの無事を喜びたいと思います。
「木村氏」から「山田氏」宛
1月24日13時22分
山田様
芦屋の○○さんからMAILのFAX送っていただきました。ありがとうございました。家のコンピューターが使えなくなり,学校のコンピューターは床に投げ出されながらも健気に動いてくれたのですが,FENIXも神戸ポイントは故障らしく,今大阪経由でアクセスしています。皆様にご心配をお掛けしました。そして,ありがとう。
住む家は失いましたが,夫婦二人に猫1匹無傷で無事です。とは言うものの,私は数カ所に名誉のかすり傷があります。瓦礫に埋まった人を素手で掘り出したときのものです。
報道の通り,プロであるはずの行政は全く機能せず,素人である私たちは,命辛々逃げ出した5分後には,覆い被さるブロックを,瓦を,柱を,速く速くと声を掛け合いながら手で取り除き,わずかな隙間から人を掘り出しました。一つ間違えば,掘り出されているのは自分だったと震えながら。全く遠くの行政より近くの他人です。
今は,西宮市に避難していますが,このあたりも被害が大きく余震に怯えています,いえいえ私ではなく猫が。
家も,コンピューターも,お気に入りのオーディオセットもCDも,本も絵も,ダイビングのビデオも何もかもなくなりました。
でも生きています。カネで買えるものは多く失いましたけれど。カネでは決して買えないモノ,命と皆様からの温かいメッセージ,を得ました。ありがとう。本当にありがとう。
今は,学校も避難所で大混乱(体育館。教室はおろか玄関ホール,事務室の戸の前まで布団が占拠している有り様)しており,時間が取れませんが落ち着きましたら顛末記などアップしたいと思います。乞うご期待。取り急ぎ。
「丹治氏」より「元委員」宛
1月26日6時30分
神戸で被災された木村さんよりの一報が入りました。山田さんの大変な努力で、芦屋市にお住まいの方が福住小・そして木村さんの様子を伝えてくれましたが、ようやく大阪経由のポイントから直接御本人からの連絡を頂きました。
丹治は、現金を送ります。木村さんには銀行に行かれる時間もないと思いますので、書留で福住小宛に送付するつもりです。各自で何らかの援助をぜひ送ってください。木村さん宛には別のMAILを送りました。もっと良いアイデアがあれば連絡下さい。
「本川」より「木村氏」宛
1月28日20時22分
さぞご不自由でご心労な日々を送られていることと拝察します。そうは申しても、遠隔の地にいる私にとっては各種の義援金の募集に僅かばかりのものを送る程度で、具体的に何ができるというものでもありません。どうか、率直に何が足りないと言うような申し出をしていただければ何某かの努力をいたしたいと考えています。
こんな時期に何をコンピュータとお思いかとは存じますが、当座の各種業務の手助けになればと思い以下の品を用意しました。(機種列挙略) まだ、郵便や宅急便の事情が好転せず送付は直ちに困難かとは思われますが、もしメイルが読め、送付が可能となっていたら教えてください。たいした機種を用意できず、力不足でごめんなさい。
「木村」氏より「元委員」宛
1月30日11時55分
起きる予定の時間は過ぎたけれど,連休明けの気のゆるみか,それとも5時過ぎからいつになくうるさく鳴く猫に睡眠の邪魔をされたせいか,ベッドの中でぐずぐずしている時にそれは起きました。
グォンとかドガンとかいうような鋭くはないけれど大きな音がして,いきなり体を引きずり降ろされた,あるいは突き上げられたような感じがしたと思うと,家全体が激しく揺さぶられて,ベッドにしがみつかなければ振り落とされるようなすさまじい動きになりました。あっと言うまもなく,とてつもなく激しい物の壊れる音がし,立っているものはすべてなぎ倒され,戸棚は開いて中のものは飛びだし,部屋を仕切る戸ははじきとばされ,廊下へのドアはゆがんで開かなくなってしまいました。
一瞬のようでもあり,とんでもなく長い時間だったようでもあった揺れがおさまるやいなや,とにかく「もう一度揺れたら終わりだ!」と,立たない腰と折れそうになる膝に無理矢理力を入れて起きあがり,真っ暗闇の中すくむ足に無意識にスリッパを引っかけて,倒れた何かを踏み越えて隣の部屋でうずくまる猫を鳴き声を頼りに抱き抱え,1階に降りました。
階段を足探りで降りると,靴や置物が散乱した玄関で何かがポッと光ってすぐ消える。近ずくとまた光ってすぐ消える。もしかして火が出たか? いや玄関に火の気はなかったはずだから,何かの異変かと,おそるおそる近づく内にハタと気がつく。これは通称「お迎えライト」で,外から帰ってきた時等動きに反応して,数秒間点灯するライト。急いで拾って,消えては振って照らしながら階段を引き返して懐中電灯を取りに戻りました。
明かりを手に再度1階に降りると,驚いたことに家が激しく傾いていて玄関のドアが開かない。肩から思いっきりぶつかってみるけれどビクともしない。振り返って右の部屋に通じるドアに手を掛けるがこれも,大きく傾いでいて開かない。裏口に通じるダイニングのドアもノブさえ回らない。窓は,鍵がはずれて開いてしまっているが,格子が邪魔で出られそうにない。家の傾きが大きくなりつつあるのか「ミシ」とか「ピシ」とか音がする。今にも余震がくるかも知れない。こなくても,すぐにも倒壊するかも知れない。ほとんど反射的にダイニングのドアを思いっきり蹴った。
案外簡単にドアは蹴破れたけれど,懐中電灯で照らした室内の散乱は,これ異常の混乱はないほどで,あらゆる家具は倒れ,あるいは投げ出され,押入は戸が外れてどこかに飛んでしまい,冷蔵庫は前に傾いて,食器も食物も書籍も,すべてのものが床に投げ出されていて,文字通り足の踏み場などありません。しかし,裏のガラス戸もはじきとばされていて,ライトは隣との境のブロック塀をダイレクトに照らしています。「出られる」、迷うひまもためらう余裕もあるはずがなく,踏み蹴散らしながら裏口へ。
ところが何と,隣の家の1階が完全に崩壊して下がってきた2階が邪魔をしてブロック塀になかなか上がれない。上がれればここから出られる,上がれなければ閉じこめられる,と必死で試み,結局腹這いのような格好で何とかブロック塀に登り,そのまま四つん這いで進み,駐車場に降り,通りに出ることができました。地面に足が着いたその時,生きているという実感をようやく感じることができました。
外に出るとすでにガスの臭いがしていました。また,街灯の消えた町は不気味ではありましたが,それでも家から外に出ることができた安心感は何物にも代え難いと思ったほどです。しかし,まだほとんど人影が見えません。あまりに急激な振動で,崩壊を免れた建物も著しく傾いていたりして,ドアが開かないらしく,出口を探すのに必死の様子でした。隣に声を掛け,向かいに声を掛けて内と外とで無事を確認している内に,ようやく脱出できた人たちが通りに出てきました。左隣の夫婦は寝間着に素足で震えていました。向こうに見える人はやはり寝間着で,ほとんど倒壊した自宅を呆然と見ていました。裏手では,私たちと同じ時期に引っ越してきた2階建ての家が,まるで真上から100dもの鉄槌で叩きつぶしたように完全に崩れ,路上に駐車していた車を押しつぶしていました。その内,「ここには誰それが埋まっているはずだ」という声が聞こえて,私たちも駆けつけ,原形を全くとどめない木造住宅の崩壊の現場に驚きながらも,素手でブロックをどけ,瓦を除き,柱を持ち上げ,隙間とも言えないようなわずかな空間に閉じこめられている人を引っぱり出しました。
ようやく,あたりが明るくなって,視界が拡まるに従っての惨状はよくご存じの通りです。ただ,近所に限って言えば,昨日までの姿を知っているが故に,余りの変わり果てた姿に涙が出そうでした。路面はめくれ上がり,大きな亀裂があちこちにあり,電柱は根本から折れ屋根をつぶして道を遮り,電線は垂れ下がり,ほとんどの石垣は崩れて,大きな石がごろごろと転がり,ブロック塀の多くが倒れ,道路は瓦礫で塞がれて,付近を歩くこともできない有り様でした。その中を成す術もなく寒さに震える人々が,呆然と廃虚を見ていたり,誰かをあるいは何かを探すのか,力無く歩いたりしています。中には顔や手や脚にけがをした人も少なからずいます。
私は,今まで不思議でした。テレビで見たりする例えば紛争地域のけが人たちのあの悲壮さが。今回ようやくわかりました。無一物で放り出されたけが人は,流れる血を拭う何物をも持っていないのです。あるいは,拭うことさえ意識にないのかも知れません。覆う物のない傷口から流れる血は,顔を,腕を跡を残しながら流れ,地に滴るのです。中には重大なけがの人も居たのかも知れませんが,大丈夫かと声を掛ける他は誰も何もなし得ません。
信じたくなくても事実は事実です。今にも倒れそうに「く」の字に傾いた家を見,屋根に瓦を積み重ね窓ガラスの割れた車を見,足下はと言えば素足にスリッパ。手には懐中電灯以外は何もありません。安否が気になる人は多数いますが,パジャマのポケットにテレホンカードや小銭をいれておく習慣があるわけでもなく,電話の掛けようもありません。しかし無力になっている暇もありません。明るさと暖かさが増すに従って,先の不安よりまず,今やれることをというわけで,脱出したのと逆のルートを辿って,一人で家の中へ引き返し,1階のものはあきらめることにして,傾きの増した階段を上がって毛布といくらかの衣服と仕事用の鞄をとり,玄関から靴をとって急いで外に出ます。
停電すればテレホンカードは使えない,小銭が一杯になれば公衆電話は使えなくなる,ということに気付くのは私たちだけではなく,すでに電話の前は長蛇の列で1時間半待って,ようやく各方面に連絡が取れ,同様に被害を受けたけれど,かろうじて建物は残っている西宮の親戚のところに取りあえず身を寄せることになりました。そうと決まれば,多少の危険があるとしても,家の中から当座の衣類等は持ち出したい。長居は危険だからと,小刻みに家の中に入って,寝具等を車に詰め込み,猫も乗せ,さあ出発という段になって,何と瓦礫で八方の道がすべて塞がり,幹線道路にどうしても出ることができません。家からは脱出することができましたが,今度は地域に閉じこめられた訳です。
再び途方に暮れる私たちに,向かいのお宅から,中庭に火を燃やしていますから暖まってくださいとのありがたいお誘いがあり,結局その夜は,その中庭で過ごしました。夜明けには手水鉢の水が凍るほどの寒さの中,余震の恐怖に怯えながら,収まらない火事の炎が夜空を焦がし,緊急車両のサイレンが鳴りっ放しの中,3家族7人と犬2匹猫1匹がバーベキューこんろと七輪の火を頼りに,文字どおり身を寄せ会い,一睡もせずに過ごしました。
夢であって欲しいと願いつつ,一夜明けても事態は一向に好転せず,外部からの機械力は届きそうにありません。消防車も救急車も自衛隊の車両も何も私たちの身近にはやってきません。このままでは,今夜もまた野天で過ごさねばならないのかとあきらめ掛けた頃に,聞こえるのです。キュルキュルというキャタピラーの音が。小型のブルドーザーが1台瓦礫を自らが通れるだけの幅に押しのけながらやってきます。そして,1時間ほど作業して倒壊した家から一人救出し,あとは見向きもせず,もと来た道を引き返していってしまいました。もう少し幅があれば何とか乗用車も通れるが,このままでは,どうしても狭い。しかし,とにかく出たい。じっくりと見てみると瓦礫に乗り上げ,突起物に当たって車が傷ついたとしても1カ所を除けば,何とか通れそうな気がする。しかし,その1カ所は1階が完全に崩壊して,まさしく2階が1階になってしまったアパートで,柱や鉄骨がかなり道を塞いでいる。時刻はもう午後4時であり,外部から次の何かが来ることは考えられないし,暗くなってしまうとこの狭い中を通り抜けるのは不可能になる。急ぎ,そのアパートの所に行き,柱を右に左にと揺すりながら動かし,鉄骨を少しずつ少しずつ横にずらし,散乱した家財道具などを脇にどけわずかに隙間を拡げました。この潰れた1階には,人が埋まったままかも知れないと思いながら。
ほとんど10a刻みで車を前進させ,幹線道路にたどり着いたときには全身は汗びっしょりであたりはもう暗くなっていました。とにもかくにも,天下往来の自由を得た喜びは大きいもので,西宮まで8`の道のりを9時間かかる大渋滞も苦になりませんでした。とは言うものの,幹線道路の混乱は想像を絶しており,当然信号は消えていますから,交差点は我先にと進入する車やバイクで身動きもなりません。歩道は各所で倒壊した建物によって遮断され,歩行者も自転車もバイクもすべてが車道を通ろうとします。その車道は緊急車両がけたたましくサイレンを鳴らし,それでもよけられない車などをマイクを大音量にして注意しながら逆走する。救急車両を通そうと少しでも間隔を開けると,その隙間に人,自転車,バイクが頭を突っ込んでくるという有り様で混乱の極みです。深夜にようやく西宮に到着しましたが,ここもその建物はかろうじて立っているけれど瓦は全部落ちていて,あたりは倒壊した建物だらけという何とも心細い限りです。しかし,ようやく屋根の下で眠ることができました。
行政の対処の遅さは報道以上です。信じられないでしょうが,1日目(17日)には食料も水も毛布も何も配布されませんでした。地震の規模や被害の状況を知らせられることもありませんでした。そもそも夕方までは救援に来たらしい人を見かけることさえなかったのです。2日目(18日)の午後になって,ようやく乾パン(平成4年製造,平成7年3月期限,5枚115c)が一人に一個で2回ほど配られただけです。水は,避難所の中学校の自主的な判断で,給水漕の水が2日目の午後に配られました。それも,避難所の中に居なくては何がどのように配られるのか分からないのです。私たちは,避難所の中にはいませんでしたが,たまたま人が集まり始めているのに気付いて,校庭を1周する列の後ろに並び,乾パンを1個もらい,次に水が配られるらしいことを知ったのです。私たちは向かいのお宅の容器を借りて水をもらいましたが,列には,紙コップ一つ,湯飲み一個あるいは缶ジュースの空き缶一つしか持っていない人もいました。当然です,一瞬にして崩壊した家から何が持ち出せたというのでしょう。生きていて,自らの脚でこの列に並ぶことができるだけまだましだ,とでも思わないと救われないような光景でした。トイレにいたっては,校庭に穴を掘り,ベニヤ板を横にして下半身部分だけを囲ったものが,女性用なのです。男性用はありません。
救援も,初日の午後3時くらいに警察官かも知れない人をチラと見かけましたが,誰かが「あの瓦礫の下に人が居る」と訴えても,何をする風でもなくいつのまにか居なくなってしまいました。その日の夕方近くに建築関係者らしい数人が手動の工具を持って,瓦礫の下から一人救い出しました。すぐ隣の瓦礫の山の下にも人が居る,と誰かが言いましたが「この道具では無理だ」とか言ってそのまま立ち去りました。この人は,前述のブルドーザーによって翌日救出されました。まとまった人数の救援隊を見たのは2日目の午前9時ぐらいで,和歌山県の田辺市の消防隊員で,彼らも装備が十分ではないらしく,状況調査は行ったようですが,具体的な救出作業を行った様子はありませんでした。自衛隊員を見かけたのは私たちが地域を脱出する直前でした。
頭上には,うるさいほどにヘリコプターが飛び交っていました。1日目の近くの市場あたりの大火の際には,ヘリの機体が炎の赤さに照らされるほどの高さの所を何台も何台も何時までも飛んでいました。安全な所から,ただ見下ろすだけの彼らは,一体何なのだろうかと思いつつ,しかし私も当事者でなければ,彼らが見せ,語りかける内容に頷いているのだろうなとも考えました。
今回の件で学んだことは多分多くあるべきなのでしょうが,今は思いつきません。ことが起こってからの学者の訳知り顔の解説にはうんざりしています。うちの猫でさえ,ことの起こる45分くらい前には異常を察知していた(?)とすれば,彼らは猫以下です。現代の科学で予知が不可能なのは周知のことですから,あたかも被災者の地震への準備不足が,災害を招いたと取られ兼ねない発言は慎むべきでしょう。どこかのニュースキャスターが,最低3日は自給自足できる覚悟と準備を持ってないからだと言い,隣の知事が,被災者は自分で飯を炊いて喰えだのと言ったそうですが,こんな時にこそ人の人らしい値打ちが計れるものかなと,1日半ぶりにもらった紙コップ一杯の水をこぼさないように,こぼさないように寝巻姿のまま歩く人の姿を,同じ列に並んで見た私としては思います。また,通称「とんちゃん」は,「早朝の出来事」「初めての経験」だからと国会だか記者会見だかで言ったそうですが,天災が時を選ぶなどとは聞いたこともありません。ましてや,プロそれもトップならば未経験の事柄にこそ,知識と決断力を生かして今要求されている行動をすべきであって,経験を積んだ事柄にしか反応しないのでは,パブロフの犬です。
さて,正直なところ西宮も余震や,水道・ガスの件もさることながら,しばらく人が住んでいなかった所なので生活に少々不便が多く困っています。しかし,まあ避難民ですから今は,避難生活を楽しもうと思っています。23日からは,鉄道代替バスが動き始めましたので,往路2時間復路3時間の超満員バスで出勤しています。学校の所在地である灘区も被害の大きな所で,学校は当然避難所です。丁度本校は改築中で,体育館と管理棟,9教室ほどが12月26日に改築を終えた所で,残りはプレハブの校舎が建ったところでした。プレハブ校舎は地震で大分痛めつけられましたが,新築の部分はさすがに外部は無事で,ここに避難者が集中しています。児童数の倍以上の1500名近くが避難してきていますから,先日もお知らせしましたように,建物内は足の踏み場もないほどで,事務室の前のコンクリートの床にも布団が敷かれています。すぐ近くの学校では,事務室の中にまで避難者が入り込んでいるそうですから,本校はましといえばましです。従って,出勤といっても自分の仕事をするわけにもいかず,ボランティアや教員と一緒に避難者のお世話をしています。大体,市役所が大きな被害を受けておりコンピューターも動いて居ません。県庁も同様で,書類のやりとりもできませんから仕事らしい仕事のしようもないのです。始発のバスで出勤する代わりに3時くらいには退勤しており,学校で朝飯,昼飯と済ませ,晩御飯を貰って帰り,おまけに,防寒衣も,カセットコンロも,靴下下着までも避難者と同じようにもらって,ちゃっかりと生活しています。お風呂は,知り合いを渡り歩いてしのいでいます。最近は何をするのも列で,通勤のバスは,大体40分位並びます。そろそろ銭湯も水の出る地域では回復しているそうですが1時間待ちとか2時間待ちとかだそうです。先日は,仮住居の申込に並びました。何と書類を貰うのに1時間,受け付けるのに1時間,それで確率は1%以下だそうです。今日は,家屋の取り壊しの申請に行こうと思っていますが,昨日は4時間待たされたそうです。スーパーなどの営業も場所を駐車場などに移して部分的に始まっていますが,まだまだ並んで買う状態です。生活に掛かる時間が多くなる分他のことができなくなるのですが,「生きているんだなあ」と結構充実感はあります。と,考えるようにしています。
状況が落ち着くにしたがい,自分自身の被害の大きさに今後の心配も増しますが,いいこともあるさ,と開き直っています。そう言えば,あきらめていたコンピューターですが,すべてのマニュアルと本体はクラッシュしてしまいましたが,多分ハードディスクの内容は取り出せるかも知れません。慎重にはずしてみるつもりです。オーディオセットもスピーカーだけは使えるかも知れません。CDも何10枚かは拾いました。自家製の梅干しも無事でした。被災現場を片づけながら,何本か無事だった自家製ビールで乾杯しましたが,ちょっと苦い味でした。
40数年生きてきて,今回ほどみじめで悲惨だったことはありませんが,同時に電子メールを拝見したあの時ほど嬉しかったこともありません。
ありがとう,皆さん。
「久山氏(日本教育工学振興会)」より「本川」宛
パソコン通信により、木村先生の便りを載せたら、各地から便りが届き、ニフティ社からも、フオ−ラムに載せてよいかとの連絡もありました。木村先生の記述が建築関係者には大変興味のある情報であったようです。災害後の建物の破壊状況から多くのヒントが得られるようでした。木村先生にも連絡したら、掲載することを快く承諾してくださいました。何かの役に立つならばとの返事でした。
また、会社関係者からも、あの事故の状況の中であれほど克明に記述できるのはたいへんな記憶力と文章力だと評価しておりました。木村先生にも宜しくお伝えてください。
「本川」から「木村氏」宛
2月8日10時2分
避難生活も長期化するにつれ、疲労も蓄積され極限状況になっているのではないかと心配です。昨日東京小学校支部と東京都公立小学校事務職員会の共催の研修会の打ち合わせで丹治さんと会いましたが、話は木村さんの話題に集中しました。特に木村さんの持病が悪化しないかと心配しています。
私はコンピュータしか能のない人間なのでコンピュータいらないかといった非常識なメイルを差し上げてしまいましたが、物資的に調達困難なものがありましたら、ご遠慮なく言ってください。東京にいてのほほんとしているのがただただ申し訳ない限りです。
また、研修会の様子などメイルします。
P.S.木村さんの電子メイルによるレポートは私の知る限りでも(理振関係者以外)50人以上の方が読んでいます。中には職場で回し読みしている事務職員もいます。文章の素晴らしさからでしょうが、生の実状が迫ってくるものがあり、改めて被害の大きさに思いを寄せてみなさんいらっしゃいます。
「木村氏」から「元委員」宛
2月10日7時58分
早いもので地震から3週間が過ぎました。相変わらず混沌とした環境ですが,それなりに安定しつつもあるようです。福住小学校では,避難者が名簿ベースで1000名を割り,夕食ベースで700名,昼食ベースで400名程度になりました。今週から学校再会に向けての環境整備ということで,避難者の生活空間は体育館か教室使用を基本とし,廊下や玄関で過ごす人はほとんど居なくなりました。事務室前の住人も体育館に転居していただいたので,事務室への出入りも寝ている人を起こしたり,布団を片づけていただく必要がなくなったので,心理的に随分楽になりました。
教委のコンピューターも8日から時間限定で稼働が可能となりました。役所との文書連絡は,未だにいつ着くのかわからない郵送のままですが,徐々に増加しつつあります。
私はといえば,相変わらずいつ倒れるのかわからない西宮の家,そうそう,テニスの沢松嬢宅のすぐ近くです,から通勤しています。ほとんど毎日のように通勤ルートは変わっています。昨日は阪急バス,今日は阪神電車が青木(おおぎと読みます)まで通じたからそれに乗って,明日はJRが芦屋まで通じるからJRでそこまで行って,来週は阪急が御影・王子公園間が再開するそうだから,JRで住吉まで行って,そこから代替バスで阪急御影,それから阪急電車かなと考えています。もちろん最も信頼できるのは自らの足で,バスを待つのに2〜3時間待ちはざらですから,10`ぐらいは歩いた方が速いのです。併せて,この機会に少々やせようとせいぜい歩くことにしています。被災者の中にはあれ以後喉にモノが通らないという話も聞きますが,私は全然そんなことはなく,本来好き嫌いも全くないので,とにかく体力勝負と3食きちんと食べています。お気に入りの食べ物はありませんが,量だけはあります。強いて言えば野菜類が不足しがちです。酒量も減っていませんが,今は風邪気味というぐらいで,体調は良いようです。水道もようやく回復しました。ガスはまだですので,入浴は知り合いを渡り歩くか,数少ない銭湯に並んでいます。これも最近はましになって,1時間ほど待てば何とか入場できるようになりました。
私の住んでいた東灘区はあちこちで壊滅状態のようです。未だに大部分が整理の目途もつかないまま放置されており,道路を塞いだままになっています。先日来随分と神戸の街を歩きましたので,その様子も機会があればレポートしたいと思いますが,ほとんど泣きたくなるような惨状です。
今,職員室から朝食の用意が整ったとの声が掛かりましたので食ってきます。とり急ぎ。
「本川」より「木村氏」宛
2月16日6時48分
最初にまずまずという状況を喜びたいと思います。
JAPET(日本教育工学振興会)の久山さんからメイルをいただきました。私の行動が木村さんに迷惑になったのではと心配です。
徐々に復興の方向に歩みだしつつある様子を木村さんのメイルからも読むことができます。毎日の新聞やTVとは違った角度でのメイル内容は、深く惹かれるものがあります。特に学校関係者としては、学校の克明な様子は非常に参考になります。
私は養護学校にいますので、養護学校の実状というものが気になります。先日学校で神戸の附属養護の新聞がコピーされて配布されました。そこの表現は比較的に穏やかなものではありましたが、やはり惨状は相当のものと思わせる表記がみられました。なかなか映像や新聞で養護学校の様子は伝わってきませんが、通所施設の場合そこへの通所者の家族がそこへ避難している様子などが報道されています。養護の子供はパニックになっていないのか、施設や職員の確保がなされているのかとても他人事とは思えません。
今このようなことを言うのは不謹慎ですが、復興が軌道に乗った暁には、また木村さんの学校へおじゃまさせていただいて、その辺の状況を勉強させていただきたいと思っています。わたしも本年度か、長くとも7年度限りで済美養護を出なければなりません。6年度だと仕方ありませんが、校舎が竣工しますので、このことを教訓に養護学校における震災対策(なにしろ区立養護は全都で2つしかない)を整備しておきたいと考えています。
宅急便が13日くらいには再開とのニュースもあります。必要なものはメイルで指示してください。本当にこちらではなにが必要なのかもわかりません。(野菜が不足していても生ものは送付禁止ですし)
P.S.別便で送付の通り、木村レポートは確実に読者を増やしつつあります。「その2」も勝手に回送させていただきました。「その3」を私も待っていますが、たぶん多くの読者も待っていると思います。
「丹治氏」より「元委員」宛
2月23日6時31分
2/20午後の出張前に神戸の小学校事務職員会高岡会長(竹の台小)から電話を頂きました。福住小学校とは違い学校を避難所とするような状況とはならなかったとのことですが、御自身の義理の父上は長田区で被災されお亡くなりになったとのことでした。神戸の事務職員会も活動は出来ない状態とのことですが、全国大会開催(今年度は岐阜で、続いて香川、神戸の順でローテーションが組まれています、その次は30回記念大会ですので東京となります)のこともあり2/23には全事研・評議員会出席のため上京されるとのことでした。
義援金活動も全事研で呼びかけていますが、それ以前に各県段階の事務職員会や市町村事務職員段階で始まっています。気持ちの表現方法や具体的支援方法が解かっていないため、当面義援金に集中しているのだと思います。宮崎大会を開催した際には、全事研としては雲仙普賢岳災害の見舞金を直接島原市の教育委員会宛に送りました。今回は教育関係にという目的を絞った義援金送付もまま成らないほどに行政組織も混乱しています。
兵庫県の被災状況があまりにひどいためプレス報道は神戸市周辺に片寄る傾向がある ようですが、大阪府も同様に被害を受けている地区を抱えています。
「本川」から「木村氏」宛
3月5日21時30分
げんきですか? 私は先々週は1週間風邪で倒れておりました。
先週から今週(今日の日曜日)にかけては職場の引っ越しで、その前の週の風邪で休んだ分さんざんな週でありました。
さて、今日JR西日本から「新春・初夢スタンプラリー」の景品がまいりました。考えてみると、これは元町の駅で出したものです。その後あの震災が襲ったのです。ある種の感情を抱きました。そしてまた木村さんにメイルを送りました。
復興という字がTVや新聞で見る機会が多くなりましたが、本当にそのような方向で進んでいるのでしょうか?心配な点です。いまはただただ、頑張って!といしか言えない自分に腹立たしい思いがします。でも、やはり、頑張って下さいと言ってしまいます。
とりとめなくなりましたが、それでは。
「木村氏」から「元委員」宛
3月16日7時16分
理振関係のメールを拝見すると,早く状況を整えて追いつかねばと大変良い刺激になっています。とは言いながらも焦りばかりが先行しなかなか思うようには行きませんが。
事態は少しずつ改善されて行きつつあるようです。本校の避難者数も一時の4分の1に減少し,名簿上は400名足らずとなりました。学校には泊まらずに自宅に住み,食事とシャワー等だけを利用される住民が300名ほど居ますので,避難所で用意する食数は700近いようです。地震から一月あまりが経過した頃から,災害対策と学校教育の共存への模索が始まったわけですが,2月の下旬にもなってようやくのこと神戸市の災害対策本部が職員室から分離され,放送室に常駐するようになりましたので,職員室が本来の機能を回復しつつあります。
避難者の減少に併せて避難場所を体育館に統合して,教室を確保し,ようやく2月20日から複式学級(?)の2部授業が開始となり,2月27日からパンとミルクとゼリーにチーズかソーセージ等の給食が始まり,今週になって,学級ごとの授業ができるようになりましたが,午前・午後の2部制は当分続きそうです。幸いなことに卒業式は,避難者に一時体育館を明け渡していただくということで本校で行えることになりました。
行政というのは不思議なもので,緊急時には何の役にも立たないのに,ほんの少しでも世間が落ち着いたかのように見えると,俄然つまらない仕事を思いつくもので,今,私たちは膨大な事務処理にそれこそ押しつぶされそうです。服務の整理,手当の整理,施設・備品の点検調査等が主なものですが,指示系統がはっきりしないものや,指示そのものが不明瞭なものなどが多く現場は大混乱です。例えば,県費教職員の服務では,明確な方針が決まらないために未だに1月2月の出勤状況の報告ができていません。つまり,各人の勤務日数はおろか要勤務日数も確定していない状況です。にも関わらず,宿直や特勤等の日額手当の請求は今日指示が来て,明後日にはもう提出期限という有り様なのです。仕事に追われる余り,精神に変調を来した事務職員もいるように聞きましたが,教組の事務職員部長としては,情報を集めるのが精一杯で,具体的な対処もままならず歯がゆい限りです。
西宮市での仮住まいにも少しは慣れました。水道もようやく使えるようになりましたが,ガスがまだなので相変わらず銭湯に並ぶ毎日で,通勤時間の長さも加わり生活に時間がかかるのが難です。スーパーには生鮮食料品も並び,通勤スタイルもネクタイ姿が多くなりました。まだ,スカートは少数派のようですがリュックスタイルは激減しました。三宮の繁華街は,部分的には壊滅的な被害で,あちらこちらで倒壊建物のため通行禁止で,それも日替わりなのでうっかりと歩けません。普段は元町から三宮までぶらぶら歩いても2〜30分のものですが,最近は道の選択を誤ると,三宮にたどり着けないなんてこともありそうです。それでも,夕方になると着飾ったホステスとおぼしき女性があちらこちらのビルに向かって歩いています。瓦礫の廃虚にあってこれは不思議な光景です。開ける店をたくましいと言うか,通う客を大したものだと言うか。一般的には,もっぱらかつての有名店が出す屋台が人気を呼んでいるようです。
このところ,地震の夢を見ることが多くなりました。目を向ける余裕ができた性なのか心理的なストレスの現れなのかはわかりませんが,夢から覚めるといつも「ああ生きている」と妙に感動します。入職3年目の若い女性が,混乱した学校に疲れはて,手紙に「前のように何でもない日々」への回帰を綴ってきました。彼女の顔を思い出しつつ「いつか,きっとそうなります」と返事を書きました。私は,そう信じています。
「丹治氏」から「元委員」宛
4月4日7時3分
3/16日のMAIL読ませていただきました。現在既に4月になっています。仕事が重なっていたためと MAC OS 7.5への変更が重なり、ついでに「ことえり(OSに付属のFEP)」に変更しています。
大変に忙しいなかでの連絡有難うございました。給食のこと、むだとも言える「調査」の連続、避難先住居のこと、事務職員の悲鳴、など心痛めることばかりです。神戸市の事務職員部長としての“異常時の”役割も木村さんならではの配慮のことゆえと感心しております。くれぐれも健康に留意下さい。私も一応の春休みを終え、4日から雑務の毎日となります。(以下略)
「本川」から「木村氏」宛
4月29日7時3分
(前日木村さんから本川宛にメイルがあったが本川のミスで削除してしまった)
依然大変な状況が続いているようですね。ただメイルを読んで、変な安堵の気持ちを持ちました。それは木村さんの怒りの部分です。行政(といっても当事者能力のない集団ですが)への怒りは一つの側面は長期化する状況への苛立ちとも理解できますが、私はそうは理解しませんでした。木村さんの生活がそれだけ余裕が出てきたものと思っています。私は普段養護学校にいて、行政の無力さ、当事者能力のなさを感じています。今流行の言葉で言えば「危機管理能力」のようなものがかくも欠如しているのかと思う毎日です。
ばかばかしい話と言えば、先日もこんな話がありました。私の勤務先のそばの区の教育研究施設の中に備蓄倉庫があります。備蓄倉庫はいかにして開けられるかというと、災害が発生したら、そこの職員が鍵を開けるのではなく、地区の担当の区の職員が区へ赴き、そこで鍵をもらい開けに来て、さらに応援のトラックを待って地区に配布するというのです。災害発生時にこのような措置を執ることが不可能なことはあまりにも明らかです。6時間以内に参集できる職員は30%程度なのですから。まあこんな具合ですから、行政の対応というのは恐ろしくお粗末と言わざるを得ません。最もその末端を担っている者としての、反省を込めてですが。
さて養護学校の件ですが、区の計画では養護学校は避難所にはなっていません。また学校が固まっている地域でもありますので、他の学校の体育館等があふれない限り住民を受け容れることには、行政の描いた図式ではなっていません。ただ障害者諸団体のとりまとめをしている団体の長は既に、本校を災害時の障害者の家族の避難場所にするようにとの働きかけを行政に行っています。おそらく現実になれば、少なくとも本校の在校生や卒業生の家族は本校を頼って自然に来ることとなると推測しています。本校では電気さえ通えばある程度生活できるような気がします。最大の問題点は水ですが、雨水を利用した中水システム(トイレ等に利用)があり、また体育館は空調や床暖房が導入されていますので、避暑避寒は最低出来ます。障害者にとってのよりどころになることは必定と考えています。
私は故有って本校にはこの1年間しかいられませんので、今年はこの学校の仕上げの年と心得ています。災害時の対応も一応考えて離任したいと考えています。既に親が引き取りに来てくれるまでの時間(おおよそ6時間くらいを想定)を考えて、1食分の食べ物(彼らが食べられるものには一定の限界=たとえば咀嚼しやすい食べ物といった=がある)を最低は確保しないとと、学校独自の対応を取り始めています。まだまだ端についたばかりですが、そうした意味でいろいろご教示願いたいと考えています。「災害時の子供の面倒?そんなの行政の責任だ」などとはもはやみんな思わなくなりつつあるということです。
思いもかけず養護学校の状況のお願いは、木村さんへのプレッシャーになってしまったようで恐縮していますが、私の思い入れも理解していただければ、幸いです。本年度中にはおじゃまを承知で再度神戸に行きたいと思っています。
きびしき毎日が続いていると思いますが、頑張って下さい。もうさすが下ろされてしまいましたが、つい先日までは私の職場の近くの小さな商店街にも、手書きのいかにも急ごしらえと言った「神戸の皆さん頑張ってください」という横断幕が、地元商店街の青年部の手で掲げられていました。
「木村氏」から「元委員」宛
6月8日9時45分
ご無沙汰いたしております。あれから4ヶ月あまりが過ぎ,神戸の町にも統一地方選の活気?が戻って参りました。いつもとは違って,あの無粋な宣伝カーによる名前のまき散らしも,駅や街頭での活動も自粛させられているところが多いらしく,学校の周辺も比較的静かです。とは言うものの,組合員としてはむしろそれ故に大変なところがあって,気乗りのしない選挙,選挙どころではないという雰囲気を無理矢理盛り上げようとする執行部に翻弄されています。私も,事務職員部長として心苦しい限りです。「こんな時だからがんばらないと」も「こんな時にまで」と言う声も,どちらも痛いほどによくわかるだけに辛いものです。先日,東灘区(私の住んでいた地域で,被害はもっとも大きかった)の立候補者の選挙事務所でのこと。電話動員の際,ある人が1時間ほど名簿を見ながら電話をしていたかと思うと突然泣き出したそうです。「半数近くも電話が通じない。みんな死んでしまったんだ」と。
4月29日は妻の誕生日,去年半ばから様々のアクシデントで落ち込んでしまっていた妻も,アクセサリーや衣類にようやく興味を取り戻したようなので(これはこれで大変に私にとっては恐怖),久しぶりに三宮に買い物に出かけました。懇意にしている真珠店(神戸は知る人ぞ知る真珠の町)の前に立ったとたん,中から店長以下何人かの顔見知りの店員が転げるように出てきて,口々に無事を驚き喜ぶ言葉をかけてくれるのです。関西人らしく自らの不運をネタに笑いをとろうと「家はウルトラマンの一蹴りで失いましたけど,猫と命と仕事は残りました」と思い切り明るく返事をしてみました。店員は皆微笑んでくれましたけど,店長は「そうですよねえ,命と仕事は残りましたものねえ」と涙ぐんでしまわれたので戸惑いました。
本校の避難者は名簿上は200名ですが,実際には150を切っているようです。現在もっとも避難者が多い学校では,400名以上だそうです。相変わらず教職員の宿日直体制は継続しています。避難者も教職員もある意味では疲れ果てています。7月末には避難所解消,という県や市の発表を信じる避難者も教職員も一人としていません。地震直後は,大きく取り上げられた避難者の生活も予想通り,最近はあまり話題にならないようです。しかし,現実には相変わらず体育館で教室であるいは廊下で,お互いを仕切る物もなく,電気もなく(容量の関係で使用してもらうわけにいかない)もちろんガスもない共同生活をしているのです。夜は弁当1個,朝はパン,昼はおむすびかパン。この状態が未だにサハリン地震の被害者数よりも多い避難者の実態なのです。仮設住宅もいろいろな問題があるようです。先日からすでに2件老人の孤独死が報じられています。
町の復興は,少なくとも倒壊建物の撤去という点では進行しているようです。住宅地域もそうですが,三宮などの商業地域の大型ビルも根こそぎ撤去されつつあります。傾いたり,潰れたりぼろぼろになったりした建物が残っている状態も悲惨なものですが,ほんの昨日まで人々が生活をしていたその場所が今は,皮肉にも広々とした空き地となり,空白化した生活空間にはなお一層の感があります。ましてや,その空き地に花がポツンと供えられていたりすると,そしておもちゃの自動車がそっと添えられていたりすると妻はいつも泣き出してしまいます。これがこの地域では日常の風景だとは余りだと思いませんか。本川さんは来神したいとのことですが,神戸の町の宿泊事情は正常化しつつあると聞きます。是非お越しください。三宮の繁華街は活気を取り戻しつつあるとは言っても,その様子は過去を知る者にとっては自らの目で見ないと信じられないほどに一変しています。
「理振台帳」の件,お手伝いのできないままに時間が過ぎて行き申し訳なく思っています。3月末にコンピューターを思い切って一新しました。WINDOWSプリインストール(今はたいていそうですか)ですので,もっぱらWIN環境で使っています。ビデオキャプチャもMOもカシオのデジタルカメラも28.8KBのモデムもバブルジェットもこの際(何の際や,と関西弁)だから,夏の旅行も今年はないのだからとか言いながら強引に家内決済しました。LOTUSはDOS版なので,WIN版にするか(今ならOFFICEが3万円),いやいやDOSのまま使うか,でも三四郎があるしMICROSOFTのOFFICEもあるしどうしようかなあ,と考えつつ未だにLOTUSが使え(使わ)ないままなのです。プリインストールなんてあてにならないから,と思っていたら先日印刷をしようと思ったら突然ハングアップしてしまい,メーカーに何度も何度も電話をしましたが,結局インストールをやりなおすことになったり,MOのセットアップに手間取ったり,極めつけは通信ソフトでアップロードの仕方が分からなくて,メールが送られなかったりで連絡がなかなか取れませんでした。このところは機械も落ち着き,少しは時間の余裕も出てきそうなので,仕事の分担も,可能なようであればご指示ください。
アップロードができない分,あちこちのボードを除いたり,いろいろダウンロードしたりはしたのですが,未だに私はパソコン通信の世界に,その匿名性と排他性もしくは身内意識のようなものになじめずRO(リードオンリーの会員を言うそうです)のままです。でも,この世界を通じて地震後始めて皆さんと連絡がとれたことは,忘れられない嬉しさです。今になって,地震が精神に確かに影響を与えているのを感じます。涙もろい,暗闇が怖い,眠ってしまうと何かに急に襲われそうな強迫間とか地震の夢をしきりに見るとかもっとたくさんの人を救えたのじゃないかとかの自責の念です。弱気にならないように,あのメールを読んだときの嬉しさを繰り返し繰り返し思い出し感謝しています。
「本川」から「木村氏」宛
6月20日21時47分
メイル有り難うございました。オウム事件が次第に終局へ向かうに従って、初春のあの惨事の続報も再び入ってくるようになりました。昨日も義捐金の配分の問題と生活保護の関連等の特集をNHKでやっていました。また、学校事務誌も先月になりますが、阪神淡路大地震の特集を組んでおり、非常に具体的に学校の実状が伝わってきています。
毎年6月9日に椋鳥(むく鳥)の会という昔の勤務先の学校の職員同窓会(のようなもの)を行っています。今年も当日行ったのですが、神戸からの出席者があり、一同の関心を集め、質問責めに有っていました。幸い彼女の居住地は家財の被害程度でそう被害がなく、現在も被災して避難所生活をしている人々に申し訳がない思いだと、語っていました。
だんだんと状況が理解できるようになるに連れ、学校も何らかの対応をとらなければならないという気持ちだけは芽生えてきたように思います。しかしながら、その対応はお粗末で養護学校にもかかわらず、乾パン等を高々1食分用意するというものです。
さて、神戸へどうぞという温かいお言葉ですが、未だに西の地域には申し訳なさが手伝って足が向けられないでいます。ただ、今年の11月の第二土曜日とその前の金曜日に教育工学関連の研究会があるということで、女房が出席する計画を立てています。その際には随行員として訪れてみようかなぁと考えています。実際地震が来るのは秒読みなのですから、神戸の教訓は是非とも参考にさせていただきたいと考えています。まだ半年近く先のことですが、本決まりになりましたら、よろしくお願いします。その上で、3月ごろ本格的に行こうかと考えています。
そう言えば今日丹治さんから連絡があり、岐阜へ参加されるよし、私もできうる限り調節をして出かけたいと思っています。(実は8月1日に都立教育研究所絡みの教員研修の手伝いをするので、その週ほとんど出勤せずとなるのがつらい。) それから被害を受けた家屋や精神的な部分の立ち直りはメイルでは知る由もありませんが、どうやらコンピュータの環境については復旧の鎚音高く、はやくも震災前の状況を追い抜くかのような整備の状況、羨ましい限りです。
「本川」より「木村氏」宛
7月20日23時28分
最近、報道機関は神戸の半年の軌跡を繰り返し報道しています。それにつけても、ここのところの気候を考えると、避難所生活を続けている方々の、状況は想像を遥かに越えたものだろうと推察しています。木村さん自身の西宮の家の生活もどのような状況なのでしょうか? 東京は(おそらく神戸も)夏季休業に明日から入ります。もっとも養護学校の実質の夏休みは(プールが総出状態なので)8月になってからということになります。4年間の校舎改築も完了し、私としては、ちょっと一服の夏休みです。職員も今年の夏は休めと言ってくれているので、女房孝行をしたいと思っています。
丹治さんの言によれば、8/3に岐阜で再会を祝して飲もうという話。できればはせ参じたいと考えています。
「木村氏」から「元委員」宛
7月22日9時31分
二見様,山田様(彼らは今回の水害でかなりの被害を受けた)
ご無沙汰いたしております。震災の折りには温かいお励ましをありがとうございました。
丹治さん,本川さんに転送していただいたメールによると,今回の大雨の被害はずいぶんひどかったようです。少し時間がたってしまいましたけれど,お見舞い申し上げます。神戸では,依然として本校のように避難所となっている学校では,教職員の過労と心的ケアの問題が深刻化しそうです。後始末等,お忙しいと思いますが,くれぐれも無理をなさいませんように。
丹治様,本川様
メールありがとうございました。北越地方の大雨による被害はニュースで知っていたつもりでしたが,二見さん,山田さんの被害には思いが至りませんでした。神戸でも,地震で地盤がゆるんでいるところにまるまる3日以上も降り続いたりしたものですから,東灘区の山手で避難勧告が出されました。幸い何事もなかったようですが,TVでその様子が映し出されていて,嘆かわしくなりました。避難してきた住民は,なんと体操マットに座っているのです。この学校は六甲の山裾にあって地震の被害は比較的少なく,避難者も早急に引き上げたところですが,場所柄梅雨にかけて雨の状態によっては,ゆるんだ地盤が崩壊するかもしれないとの観測は地震直後からあったにも関わらず,やはり,毛布・布団の一枚も準備されてなかったのです。これで,地震の教訓が生かせたというのでしょうか。
さて,今日は7月22日(土),なのにどういう訳か出勤しています。そうです,昨夜も宿直だったのです。前回のメールでも書きましたけれど,7月末で避難所が解消されるなどと思っている教職員は誰もいません。7月19日に最終の仮設住宅の当選者の発表がありましたけれど,たとえば本校の場合名簿上の避難者は59名(実際はもう少し多い)ですが,当選者はわずか17名,残り42名の避難者は,どうすればよいのでしょうか。知り合いもなければ,仕事もない,医者もマーケットも遠いという「郊外」の仮設住宅への移転の説得を受け入れる人がそう多数いるとは思えません。現に昨夜も,職員室前の仮説電話で,知人か誰かに「仮設は当たらんかった。けど俺は,絶対にここを出えへんからな!!!!」と大声で話している人がいました。その仮説電話も本日撤去されますが。昨日は,4月に設置された大型の保冷コンテナが撤去されました。当面は,学校中の冷蔵庫でしのごうと話し合っています。学校としては2学期からは宿直体制は,廃止したい意向のようです。ただし,たとえ1人であっても42人全員であっても,避難者を決して追い出したりはしない,という条件でです。教職員も本心ほっとしています。本当に疲れ果てています,教職員も避難者も。とは言っても,校舎・校地の管理運営上宿直の完全廃止が実際に可能かどうかは別問題です。
私自身の状況は,5月に申請した建築確認申請が,来月ぐらいには許可されるようですのでいよいよ金策を考えねばならない時期となっています。「借りるのは簡単やけど,返すあてがなあ」とお酒を飲みながら義兄と話しておりますと,「借りることさえままならん人がたくさんおるのに。命があって,仕事があって,二人で一緒やったら山ほどの借金も苦にならんやろが」と叱られてしまいました。そらそうですわな。しかし,本川さんには感心しています。私は,どうも家の造作には興味がわかず,設計図を見せられて,何度も何度も,「ここがこうで,あそこがああで。ここがこうだからあそこはああなる」というのには少しうんざりしました。いずれにせよ,それこそ猫の額ほどの土地なのに。いっそのこと,マンションに引っ越そうと何度考えたことでしょう。地震直後にあの傾いた家を見て,ここを再建するのは私の義務だ,などと思わなければよかった。
8月の岐阜大会は日帰りででも参加をし,皆さんとの再会を楽しみにしていましたが,別な団体の学習会と重なってしまいました。全く気の進まない会ですが立場上参加せざるを得ません。次の機会にはどんな障害も跳ね返して馳せ参じたいと思います。
この夏休みは久しぶりに旅行も出来ず,かといって親戚宅でごろごろしているわけにもいかないので,せっせと出勤してWINDOWSの学習をして,2学期には事務職員向けの研修(教職員向けの研修には事務職員は参加したがらないので)でもしようかなと考えています。岐阜の様子などまたお聞かせください。
「丹治氏」から「元委員」宛
7月24日5時13分
皆様へ、そして本川様へ。木村さんからのMAIL拝見いたしました。神戸市福住小学校で現在でも“宿直”体制が敷かれており、また被災者が70人程もおられることを知りました。災害以降連日(交代であるといっても)大変なことと思います。自宅の復旧の問題もあり、しかし度胸ですなー。windows学習とは!“講師”になることまで考えて、ほとほとそのバイタリティーには感服します。
また、先日突然に“学校事務”編集長の山口さんから電話が入り、突然災害事の例の記事について雑誌掲載依頼を木村さん宛に了解確認をしたいと連絡がありました。そのまま木村さんの勤務地の電話番号を教えました。その後「御了解を得ました」と再度山口さんから連絡が入りました。本川さんが熱心に(?!)に、全都その他に配布した宣伝のおかげですが、原稿料は“自宅の復旧の”壁紙の一部位にはなるでしょうか? 二見さんも自宅は大丈夫だったようです。しばらくしたら連絡でも頂けると思います。
神戸の木村さんは都合により大会に参加出来なくなりました、とのことです。
「木村氏」から「元委員」宛
8月2日11時4分
暑中お見舞い申し上げます。どこでも暑いのでしょうが,神戸は22日の土曜日に大雨警報が出て以来,パッタリと雨がなく昨年に匹敵するような猛暑となりました。震災の関係で納涼行事の大部分も中止され,おまけにビアガーデンがない(あっても三宮では誰も来ない,塵がすごいから)ので,暑さのはけ口がありません。おまけに,今年は泊まりがけの出張もしなく,私事旅行もしないものだから,「おや,今年の夏休みはめずらしくよく顔を見ますね」とか言われてストレスはお腹あたりの脂肪となって貯まる一方です。岐阜に行かれた方は鵜飼いなどを見ながら盛り上がったんだろうなと,悔しがっています。皆さんにお会いしたかったのと,「あの」宮崎の渡辺さんのパネラーぶりを見たかったのに残念です。感想などぜひお聞かせください。(渡辺さんは現在「学校事務誌」連載中!) さて,神戸市は相変わらずの状態です。もはや「現代の棄民政策」とまで言われるこの避難者対策も膠着状態というところでしょうか。一昨日は宿直でしたが,いつもは配布される朝食がどういうわけか配られませんでした。8月1日が何かの区切りになったことは確かのようです。
私は,家にいるのも何ですので熱心に仕事をしています。24〜27日までは,相変わらずの N5200の研修で,声が枯れてしまいました。その機械はPTOS-MSDOSの両用機で,私たちの強い希望で WINDOWSもインストールされているので,受講されている皆さんには申し訳ない話ですが,どうせなら WINの研修をしたかったものです。
夏休みの旅行をお考えの皆さん,神戸方面へ足を向けられるならご一報ください,今のところ8月23,24日以外はたいてい学校か教育センターにいます。暇を持て余していますので,喜んで観光ガイドをさせていただきます。
「木村氏」から「本川」宛
8月2日11時3分
本川様
岐阜はいかがでしたでしょうか。神戸からでも岐阜なら何とか日帰り出来るかと思って皆さんにお会いできるのを楽しみにしていたのですが,組合の学習会と重なってしまい残念なことになりました。その学習会のレポートは,今回の地震に関するもので,どういう訳か私が担当しました。何とアンケートの結果をもらったのが31日の朝,その日はちょうど宿直でしたので,かろうじてできあがりました。本川さんは今回の地震に対する学校対応に興味をお持ちのようですのでアップしましたのでご覧ください。
で,養護学校の対応ですが,これが表に出てこないのです。東灘区にあった一校は,当初は地域の避難者を受け入れていたようですが,どういう訳か避難者には早期に対処いただいたようです。その後に,保護者や在学児童・生徒を受け入れたという話も聞きません。盲学校は,早くから在学生徒に開放したようですが,遠方からの通学生が多いせいもあって利用者は少なかったと聞いています。今別なルートでも聞いていますので,また情報が入ればお知らせします。
このレポートは別のページで公開中です。是非お読み下さい。
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