1995年1月17日午前5時46分,僅か数十秒の激しい揺れで東灘区田中町の自宅は全壊しました。ふるえの止まらない脚を引きずり暗闇を手探りしながら,倒れた家具を踏み越え,崩れた壁をくぐり,戸を蹴破り,塀によじ登り命からがら家から脱出した私が見たのは,破壊され尽くした街でした。道路はめくれあがり大きな亀裂が走り,電柱は根本から折れて倒壊した家の屋根を太刀割って道路を遮り,電線はちぎれて垂れ下がり,石垣も塀も崩れ倒れて自動車をつぶしあるいは道を塞いでいます。周辺で無事な建造物など一つとしてありません。近くの高速道路も鉄道も病院もオフィスビルもマンションもあるいは倒れ,あるいは傾き,また落下しました。ましてや木造家屋などひとたまりもありません。生と死を分けたのも単に運に過ぎません。
半年が経過した今,自宅のあった周辺はただ空き地が広がるばかりです。あの日,自力で家を脱出した人,あるいは,かろうじて瓦礫の下から救出された人々はひとまず命のあることに感謝しました。しかし,次には一月の寒風の中,自分がどこに行くのかを考えなければなりませんでした。ともかく安全な場所へ。余震は続いています。ガスも漏れているかもしれない。どこかで火事が発生したらしく,黒煙が空に見える。東海地方は壊滅状態で神戸どころではなく,救援は来ないとの噂も飛び交う。明日にはともかく,今どこに身を寄せるのかを直ちに決断しなくては,せっかくの命を無にするかもしれなかったのです。
私の場合,自宅からもっとも近い「それらしい場所」はN中で,100メートルほどのところにあります。さらに,JRの線路を挟んで南500メートルにはM小があり,ここはM中と隣接しています。私はまず,N中に向かいました。午前10時頃でしたが,すでに体育館にはかなりの避難者がいましたし,人々は続々とやってきていました。それでも体育館にはまだかなりの余裕があるように見えましたが,この時点での避難者は,それこそ身一つで,毛布や布団を広げている人は少数だったので,空いているように見えたとも思われます。まず場所を確保してから,家の様子を見に帰る人がいたりして出入り口は混乱し始めていました。開放されているのは体育館のみで,教室は施錠はされていませんでしたが「立ち入り禁止」の張り紙が戸口に張られていました。この日に私が見た掲示は,これだけです。便所は使用禁止とはなっていませんでした。
M小の状態はもう少し混沌としていました。後から分かったことですが,校舎の被害状況がひどくほとんど建物の中に入れない状態だったので,押し寄せる人々は校庭に固まっていました。立ってばかりはいられないので持参した衣類や毛布を地面に敷き,その上に座ったり,座ってもいられないのか横たわっている人もいました。寒さを避けるためかたき火が焚かれていて,わずかな暖を求めて人が集まっています。ここでも現状の正確な情報は,誰もつかんでない様子で,ここに来てはみたもののどうなるのかと不安な避難者と,とにかく避難者を受け入れ,危険な校舎内への立ち入りは予防できたもののこれからどうすればよいのか,判断のつきかねる学校の困惑があるようでした。
引き続いて隣接するM中に行きましたが,ここは建物の被害が大きく,学校への立ち入りそのものが危険な状況で,出勤してきた教職員が掲示をして近くの避難所へと誘導していました。
状況は,時間を追うに従って深刻化していきます。近くを走る国道2号線は渋滞がひどいらしく,けたたましい騒音がします。頭上にはうるさいぐらいにヘリコプターが飛んでいます。しかし,夕方になっても救助の手は全く届いてきません。私自身は一度だけ制服警官を見かけた気がしますが,何をするでも何を聞くでもなく,やがていなくなりました。外部から救助が来ないだけではなく,倒壊した家や瓦礫で道路が塞がれてしまい,地域から出ていくこともできません。この頃になってようやく新聞の号外を手に入れることができ,震源地が淡路島などのわずかの情報に接することができましたが,それが何の救いになるわけでもありません。
日が傾き,やはり場所の確保が必要だとN中に再度出向きましたが,もはや体育館だけではどうしようもなく,教室も廊下も階段も人で埋め尽くされていて,足の踏み場もないほどです。実際には,これから更に人は増え続け,ピークには1500名を越えました。校庭にも人があふれていて,焚き火を囲んでかろうじて寒さをしのいでいます。便所は使用禁止にはなっていませんでしたが,一目瞭然で使用できる状況ではありませんでした。飲み物も食料も(少なくとも全員には)配布された形跡はありませんでした。毛布も布団もなく段ボールも拾えなかった人は,床にそのまま横たわっています。5時になると,明かりのない街はもう真っ暗です。
余震と寒さと,緊急車のサイレンで眠れない夜が明けても,状況は何も変わりませんでした。N中は,施設も設備も空間という空間はすべて避難者の身の置き所と変わっていました。誰もなすすべもなくただ静かにじっと耐えていました。昼過ぎになってようやく,どこから届いたのか「食糧庁」の乾パン(平成4年製造,平成7年期限,5枚115グラム)が一人に一つ配られました。たった乾パン一つでもようやく救援が始まったのかと,列に並ぶ人の表情も少し明るくなり始めましたが,配布する教職員(らしい)の,「次はいつくるのか分かりません。何がくるのか全く分かりません」との悲愴な叫びに,再び重い雰囲気となりました。続いて水が「一人に一杯」配られることになりました。列の後ろに並んだ私は,前や後ろの人の持っている容器に驚きました。バケツややかんのようなまともな容器を持っている人は稀で,大部分の人はペットボトルや空き缶,湯飲み一つだけを手に並んでいるのです。私は,震災直後に素手で瓦礫の山から人を掘り出したことよりも,震災から1日半後に寝間着にスリッパのまま,紙コップ一杯の水をこぼさないようにそろそろと歩く男性の姿を生涯忘れられません。
配られた水はN中の浄化水槽の水でした。浄化水槽のパイプを外したのはジャージを来た教職員,パイプからバケツに受けるのは男子生徒,バケツから水を掬って,避難者の容器に入れるのは女子生徒でした。渡す方ももらう方も誰も彼も一生懸命でした。
もはや,建物内の便所は使用不能です。校庭の片隅に穴を掘り,ベニヤ板を横にして囲んで下半身だけを隠すようにしたものが女子便所となりました。男子用はありません。
この時点でそれぞれの学校には,地域の被害状況も学校の対処すべき方策も,何も情報はなかったはずで,誰かが困難な状況の中を出勤し,門を開け,体育館や教室を開放し,避難者を迎え入れました。そして,ある者はそのまま学校に残り,またある者は交代しながら「勤務」を行ったのです。彼らは,避難者に対して,管理運営上の問題の解決や危険な場所等への立入を予防するための行動を行い,あるいは必然的に生じる莫大な問題−遺体の安置も!−を解決し,まず学校を地域の避難所として明確に位置づけました。誰に命ぜられた訳でもなく,今だけしか見えない状況下で,彼らはよく判断し,行動しました。まさしく教職員の自律性の高さが証明されたのであり,それは,長年の組合活動の成果であると,私たちはもっと胸を張って主張するべきです。
学校に避難所としての機能の充実が急に声高に叫ばれるようになりました。施設・設備の充実は今更言うまでもありません。いかに想定をはるかに超えた大地震とは言え,非常用電源など夢のまた夢,緊急医薬品はおろか,水の一杯・乾パン一個・毛布一枚すらも準備されていない現状は,不備と言うよりは無責任というべき放置状態です。この点に関しては,世論の轟々たる非難に行政も否応なく反応しつつあります。
しかし,緊急時には避難所となる場所に勤務する私たちにとって,さらに深刻なのは災害時のマニュアルが全く整備されていなかったことです。避難所となっても,学校は本来の機能である「教育」を停止することはできません。本来の機能を維持するためには,どのような条件下であっても可能な限り教職員の労働環境は確保されるべきです。しかしながら,今回の災害では行政側にこの視点が欠落していたような気がします。学校に避難所としてのハード的な機能を備えるのは現実的な対処だと思いますが,ソフト面の充実なくしては,教職員の負担を増すだけと思われます。
私たちは,この点を中心にアンケート調査しながら考察を深めました。
@避難所住民の推移(市教委資料)
学校園 | 社会教育施設 | 全市 |
||
ピーク時(1/23) | 136,295 | 61% | 2,267 | 223,902 |
---|---|---|---|---|
1ヶ月(2/16) | 100,089 | 56% | 1,975 | 178,591 |
50日目(3/ 7) | 81,576 | 58% | 1,667 | 140,187 |
100日目(4/26) | 24,048 | 60% | 794 | 40,037 |
146日目(6/11) | 14,488 | 61% | 526 | 3,631 |
A1月29日調査で避難者が1,000名を超える小学校の全教職員(県・市費)数
避難者 | 教職員 |
|
1 | 4,000 | 48 |
2 | 1,000 | 49 |
3 | 1,400 | 36 |
4 | 3,000 | 31 |
5 | 2,000 | 52 |
6 | 3,000 | 41 |
7 | 2,200 | 45 |
8 | 2,000 | 41 |
避難者 | 教職員 |
|
1 | 1,600 | 38 |
2 | 1,000 | 47 |
3 | 1,300 | 25 |
4 | 2,800 | 26 |
5 | 3,000 | 27 |
6 | 3,000 | 27 |
7 | 2,500 | 34 |
8 | 1,700 | 25 |
9 | 1,000 | 31 |
避難者 | 教職員 |
|
1 | 1,400 | 17 |
2 | 2,300 | 23 |
3 | 2,000 | 29 |
4 | 1,650 | 16 |
5 | 1,300 | 15 |
6 | 2,400 | 24 |
7 | 3,500 | 26 |
8 | 3,000 | 32 |
避難者 | 教職員 |
|
1 | 2,300 | 31 |
2 | 1,700 | 34 |
3 | 2,000 | 29 |
4 | 2,000 | 20 |
5 | 1,200 | 16 |
6 | 2,400 | 24 |
7 | 3,500 | 26 |
8 | 3,000 | 32 |
避難者 | 教職員 |
|
1 | 1,200 | 33 |
2 | 1,000 | 27 |
避難者 | 教職員 |
|
1 | 1,900 | 25 |
2 | 2,330 | 35 |
3 | 1,200 | 32 |
幼稚園 | 小学校 | 中学校 | 高・高専 | 盲・養護 | 児童等計 | 教職員 |
|
死亡者数 | 4 | 108 | 47 | 17 | 2 | 178 | 11 |
A転出児童・生徒数(市教委資料,2月1日時点)
実数 | % |
||
小学校 | 1/16在籍数 | 100,077 | --- |
市外転出児童数 | 11,932 | 11.9 |
|
中学校 | 1/16在籍数 | 48,470 | --- |
市外転出生徒数 | 1,530 | 3.1 |
B本校(福住小学校)児童の避難状況(転出ではない、2月14日調査)
児童数 |
|
市内 | 55 |
市外 | 152 |
計 | 207 |
C施設の被害状況(市教委資料,2月1日,345校園中)
被害状況 | 実数 | % |
被害が甚大で建て替えを必要とする | 21 | 6.1 |
建物の主要構造物に被害があり大規模改修工事を必要とする | 10 | 2.9 |
間仕切り壁、床等に亀裂があり中規模程度の改修を必要とする | 35 | 10.1 |
壁の倒壊、天井落下、電気・給排水設備の故障等の復旧修繕が必要 | 212 | 61.4 |
D臨時教室の建設(市教委資料,2月1日,345校園中)
E−1教育活動再開状況(市教委資料)
再開数 |
|
1/23 | 135 |
2/6 | 245 |
2/13 | 300 |
2/20 | 337 |
2/24 | 345 |
E−2校区(学区・学下)の被害状況の把握(事務職員アンケートから)
回答数 |
|
教職員の校区巡視 | 64 |
区役所からの情報 | 4 |
その他 | 6 |
A連絡手段1月17日の出勤者の大部分は通常の出勤手段と異なった方法で出勤したものと思われます。本校の場合,当日の出勤者7名の内訳は,自家用車1名,自転車1名,徒歩5名でした。道路事情は地震直後よりもむしろ,時間の経過と共に悪くなっていき,18日以後は自家用車での通勤は不可能となりました。従って,1月23日に各私鉄が代替バスを運行するまでは,徒歩か自転車,もしくはバイクが通勤手段でした。今回,兵教組の素早い対応で通勤困難の場合は近隣校での支援勤務も出勤とされる特例措置が講じられましたが,情報の伝達の問題もあり,また市教委からの具体的な対応への指示がなく,十分に活用されたとは言えませんでした。学校を避難所に指定していながら緊急時にいかに職員を確保するかに関しても,当局は全く無策でした。
学校からの直線距離 人 数
2キロ未満
5
2〜4キロ
3
4〜8キロ
7
8〜12キロ
2
12キロ以上
8
公共交通機関が使用不能となると通勤距離が問題になりますが,本校の場合は上図の状況でした。ただし,これは直線距離で,17日当日徒歩で出勤した2キロ未満の教職員3名の所要時間はいずれも約1時間とのことでした。
B給与の支給地域の被害の大小に関わらず,全市的に電話は非常につながりにくい状態になりました。道路事情と同じく地震直後よりもむしろ,ある程度時間が経過してからの方がかかりにくい状態となり,当日の連絡には各人とも苦労をしました。21日時点でのNTT調査でも,市内通話は50%の発着信規制となっています。被害の大きかった地域では,公衆電話が長蛇の列で,また使用不能になったものもたくさんありました。今回所属長には携帯電話が貸与されましたが,その主旨は教育委員会との連絡を確保するためのもので,電話番号も職員に公開される性格のものではありませんでした。
17日出勤状況 出勤した
通常の方法
18
通常以外
12
連絡時間・日
当日午前9時まで
8
当日正午まで
7
当日午後6時まで
3
18日〜20日
16
21日以降
3
17日は,言うまでもなく県費職員の給料日でしたが,被害の大きい地域では銀行そのものが被害を受け,17日は業務を停止したところもありました。学校側の事情にせよ,銀行側の事情にせよ問題にすべきは「資金前受者」としての職責であり,給与支払い者としての県当局の姿勢です。特に,「資金前受者」の立場は,神戸市では日常的にも意識が希薄な傾向があります。支払方法の問題も含め,「労働の対価」としての給料を「定められた日」に「確実に当人に渡す」点を,再確認する機会としたいものです。
1月県費職員給料の支給状況(事務職員アンケートから) 回 答 数
支給できた
42
支給できなかったが指示はあった
9
支給できなかったし指示もなかった
15
C情報伝達
今回最も重大な問題となったのはこの点です。ほぼ100%の情報遮断の中で私たちは,普段とは異なる環境で仕事を行わざるを得ませんでした。市教委,県教委ともに積極的な情報伝達の努力を「全く!」行わず,学校現場では,福利厚生,服務等の基本的な情報を兵教組・神戸教組からのFAX,もしくは郵送によって得ました。
服務の取り扱いについても,市費職員に関しては2月20日に取扱い文書が出ましたが,県費職員については,具体的な説明は何らありませんでした。従って,私たちは担当部局に直接照会することによって,少しでも情報を得ようとしましたが,その対応の誠意のなさを指摘する声が多くあります。
服務についての共通理解(事務職員アンケートから) 回 答 数
あ っ た と 思 う
34
な か っ た 思 う
26
わ か ら な い
10
担当部局
照会事項等
市教委庶務課
メール(文書交換システム)の運行
防災指令3号の内容教職員課
特殊業務・宿日直・管理職特殊業務手当の支給要件について
教職員の服務の取り扱い
服務帳票・出勤簿の表示・整理
通勤経路の把握
市費職員の旅費の取り扱い
認定書類の提出期限
防災指令3号の内容管理課
管理備品の執行期限・6年度決算
破損備品の調査
災害復旧に要した費用の解釈
地震直前に送付した書類の受理状態
オンラインシステムの復旧状態
物品調達(用品・切手)
高校受験生の弁当代指導課
生徒登校指導
ミルク給食・簡易給食
受験生の昼食代県教委財務課
特殊業務の解釈
支援者への旅費の取り扱い
時間外勤務(6%分)の配当
給料受領
報告書類の記入方法・内容公共済
災害見舞金
被災者への貸付業務このように照会事項は,ほとんど全分野にわたります。今回に限らず,こういう特殊な状況下では,通常の業務が大混乱したうえに,特殊な状況に対処するための事務処理が付加され,さらにその処理に関する情報が届きにくく,全体として処理量は膨大になってしまいます。アンケートには,全く同一の仕事をするにも関わらず管理職,教員と手当額に差がつく状態を「信じられない差別」と憤る声が当然非常に多く寄せられました。しかし,またあまりの仕事の膨大さに「手当も休みもいらん,仕事を減らして欲しかった」との悲痛な声も少なからずあります。
1月17日から2月16日の超過勤務時間(事務職員アンケートから) 時間数
回答数
1〜15時間
12
16〜30時間
12
31〜45時間
13
46〜65時間
5
66時間以上
11
「防災指令3号」の件は,特に取り上げておきたい点です。今回の市教委の対応の中でもっとも無責任なものの一つといえます。市教委は,現状の防災体制について何らの指示をすることもなく,私たちの問い合わせに対しては,担当者は「震度5以上の地震の場合は,自動的に『防災指令3号』が発令され,市職員は全員・全日・全時間出勤体制となる」というもので,その根拠を尋ねても「『神戸市防災計画』による」の一点張りでした。
防災指令3号の発令を知った日(同上) 回 答 数
1/17
6
1/18
6
1/19
6
1/20
10
1/21
9
1/23
8
1/24
4
1/24以降
9
不明
6
発令内容等の説明(同上) 1/17
1/18
1/19
1/20
1/21
1/23
1/24
1/24以降
日は不明
なかった
わからない
発令内容の説明
2
4
1
5
8
1
6
2
8
16
12
取り扱いの説明
1
0
0
0
3
0
4
3
13
25
15
しかし,「神戸市防災計画」なるものは,実際には学校には存在しないものです。本校の場合,校長・教頭を始め,全教職員の誰一人として見たことはおろかその存在すら知りませんでした。学校にあるのは,「神戸市防災指令規程」であり「神戸市災害対策本部条例・規程」であり,これらには,防災指令3号の発令基準は「大規模な被害」であり,配備につくべき職員は「全職員」,活動内容は「予想される災害に対処するための準備処置または発生した災害に対する応急処置」と書かれているに過ぎません。もちろん,私たちは紙に書かれていることしかしないのではありません。アンケートに寄せられた,「避難所としての事実が先行し,防災指令の発令の有無にこだわるよりも(中略)避難所としての運営が軌道に乗ることが,1日も早い学校再開の道になるとがんばってきた」のは,まさしくあのときの私たちを代表する意見です。しかし,服務にせよ手当にせよ「先に人が動いてしまって,後から書類が来て,しかも内容は複雑」だったのは事実であり,「服務,手当,福利厚生について正確な情報を伝える事務職員としての役割」すら,組合からの文書を通じてのみかろうじて果たし得たのは事実です。しかも,せっかくの組合からの情報も,ありがたかったにしても「事務職員としては組合情宣物だけを根拠に仕事はできない」と考えるものです。
誰から説明を受けましたか(同上) 校長・教頭
市教委担当者
その他
なかった
わからない
防災指令3号
53
2
7
0
0
発令事項の説明
40
0
2
16
12
服務等の取り扱い
18
2
2
25
15
どのように説明を受けましたか(同上)(調査中) 職員会
市教委等
その他
なかった
わからない
防災指令3号
0
0
0
0
0
発令事項の説明
0
0
0
0
0
服務等の取り扱い
0
0
0
0
0
1月中の業務分担の決定(同上) 回答数
職員会
40
企画委員会
9
校長の指示
15
その他
11
教職員相互の業務の把握(同上) 回答数
相互に把握されていた
37
あまり把握されていなかった
26
わからない
8
あの混乱下では,情報の伝達に物理的に苦労するのは仕方がないことです。2月7日までは,市教委とのオンライン通信も不可能でした。メール(文書交換)システムが一部地域で変則的ながら再開したのが2月27日,全市での再開は3月7日でした。もちろん郵送やFAX,直接受領に行くなどは随時行われていました。事務職員サイドでは,情報流通の手段は尽くしました。それでも具体的な情報が流れて来なかったのは,物理的な問題ではなく,流すべき情報を市教委が持ち得ていなかったとしか思えません。全く無責任・不誠実であり行政処理能力も疑わしいと言わざるを得ません。また,組合としても,速報の情報は非常に早くて充実したもので,あの困難の中執行部自らの足で配布したのには心から感謝していますが,交渉して勝ち得た権利を具体化するのは事務処理を伴うことであり,この点にもう一歩踏み込んだものとなっていたら,混乱の回避に大きな力となったのではないかと自問もしています。
今回の地震は,午前5時46分と早朝であって児童・生徒の授業中や登下校時間でなかったのは,不幸中の幸いでした。このことは,私たち学校に勤務する教職員にとっても同様です。特に事務職員は,神戸市の場合全校が事務室(小1校のみ事務スペース)で執務しており,備品類の配置状況によっては,大きな被害となりかねませんでした。この機会に執務スペースに,自らの生命への配慮も考えてみたいものです。
事務室キャビネットの被害状況(同上) 落下
15
倒壊
9
位置づれ
41
その他
16
事務室での身体的被害予測(同上) 死亡
7
重傷
15
軽傷
32
被害なし
17
事務室の被害状況を,職員室と比較した場合の回答は,次の通りです。
事務室の職員室と比較した被害程度(同上) 大 き い
小 さ い
変わらない
回答数
5
14
52
事務室に特徴的な被害としては,端末機等に関するものがあります。落下したものは多数あったそうですが,完全に破損したのは2校で,この2校も含め,2月中旬には,全校での復旧が終わりました。また,キャビネット類の落下や倒壊により,内部の書類が散乱して足の踏み場もなかったという回答も複数来ています。上階の水道管が破損し,事務室が水浸しとなり,使用不能となったという学校もありました。
被害の大きかった地域や学校では,事務室が使用できない状態になった時期がありました。
事務室が使用不能だった期間(同上) 1〜5日
6〜10日
11日〜15日
16日以上
なし
回答数
4
9
5
4
49
使用できなかった理由には,破損がひどかったものと,避難所業務に時間をとられ,事務室の復旧に時間を割けなかったというものの他,住民が避難していた,災害対策本部となった,ボランティアの詰め所となった,診察所となった,物資の保管場所となった,などがありました。
半年経過したとは言え,この地震に遭遇したすべての人々にとって,災害は経験ではなく現在進行中の体験です。本校には7月19日の最後の仮設住宅の抽選を終えても,なお40余名の避難者が残ります。「現代の棄民政策」と言われるこの状態をいかに克服するかは,私たち全員の課題であり,時間をかけて学校の果たした機能,その中で事務職員の果たした役割を再点検することによって,今なお学校で,テントで,仮設住宅で,避難生活を続ける人々の力に少しでもなりたいし,また私たち自身も「希望と期待」を持ち続けることができると信じています。