西暦2000年10月11日(水)〜20日(金)  

記              録
11  一昨日に則が同僚の通夜に行ったばかりだというのに、今日は私の同僚の通夜。不思議なものでこういうことは重なるときには重なるものだ。季節的なものがあるのだろうか。
 さて、今日、インターネットでガンの取材申込というのがあった。毎日薬を飲んでいても、何の薬か忘れるくらい惰性になっているのだが、こうして取り上げられると、改めて自分がガンであったと言うことに思い知らされる。昔ほど不治の病と言うことはなくなってはいるが、やはりそれなりの重さはある。尤もそれを忘れるくらい、最近は調子はいいのだが。

 相棒が休みで、その上よく電話を取ってくれる人も休みなので、電話番状態・・・でもなかったけれど、何となく気乗りしない日だった。午前中は片手間にネットワークの修復。ノート用のネットワークカードを壊してしまうという、信じられない出来事があったので。午後は少し落ち着いて仕事。さて夕刻だが、今日は順さんがお通夜ということで、比較的近場だったので、新しくできた飲み屋で精進落としをした。
12  明日はまあ、言ってみれば子どもたちのお祭り。ということで、学校中が騒がしい。その中で落ち着いて勉強など出来るわけもなく、もっぱら子どもの関心もそちらに向いている。それも明日で終わりと思おうと少しホッ。
 でも、来週もまた社会科見学やら授業参観やらでその準備に忙しい。

 今日明日は自分の部屋は自分一人。試験期間中で、午後から生徒がいないので、知識のある教員と二人、午後からは電気屋に変身して、校内LANのの配線の検討をする。新しい学校なので、先行配管がされているものの、ラベル表記がないので、思ってた以上に苦労する。だいたい図面通りに配管されていないと言う不思議さ。夜は新規開店のお店で半額なので、暴飲暴食をする。困った人種だ。
13  今日は子どもまつりで1日大騒ぎだった。もっともこういうのは楽しいから、疲れなどは感じないが、終わってみればあっという間のあっけに行事だった。まあ、学校でやることといえばこういう物かもしれない。

 ・・・給料日が二日早くやってきた。朝職場を出て、給料をもらいに行く(相棒が休みなので私のところにおはちが回ってきたので)が、その額はわずかなものになっている。かなりの人が振込になっているためだ。この振込管理職を含めて、大合唱をしてそうなっているし、事務職員も手間が省けるものだから、それに唱和している人が多い。しかしだ、現金でもらうのが本来だと私は思っている。お金を数えるからこそ、給料袋の明細書を見るし、だからこそ働いたという実感も湧いてくる。給料振込を組合を含めて是認している現状を批判するのは、時代遅れなのだろうか?
14  今日・明日は合作でお伝えします。

 約一月ぶりに旅行へ出た。といってもいつものバスツアー。お目当ては三陸海岸の最初に付きだした半島、牡鹿半島への旅。でもこれが大変だった。だいたい仙台から更に海へと足をのばし、そしてその突端まで行くと言うこと自体が実は大変だったのだ。そのことに気が付いたのは昼近くになってからだ。東北道は事故で大渋滞を起こしていた。そのまま定刻に走っていれば、12時には入れた白石の昼食場所に2時間近くも遅れて到着した。うらめしい限りの事故ではある。

 おまけにそこで騒ぎになりだしたのは、奥松島の大高森(浜の前に小山がありその眺望がいよいところ)からの遊覧船の出航時間3時30分に間に合わないという事態。それはそうだ、なにがなんでも2時間弱で到着するわけはない。ガイドさんの機転で、そのコースは取りやめにして、松島から大高森へ行く遊覧船に乗ることになった。つまりはそれでお茶を濁してしまおうというか、お目当てだった嵯峨渓の海岸美は見られずじまいとなった。もともと強行軍のスケジュールなのだから諦めるしかなかったが、残念至極であった。

 どうにか松島の瑞巌寺近くの桟橋にバスが滑り込んで、何と臨時便の船で大高森まで運んでくれた。我々が乗船すると即出航だ。まぁそれはそれで良しとしなければなるまい。これまでに何度も足を運んでいる松島だが、海岸には工場などもあって、煙突が無遠慮に立ち並ぶなどして、なかなか島が点在する風景だけを楽しませてくれない。それを跳ね返したのが、大高森という海抜100メートル程度の小山からの眺望だった。多島海の美しさを堪能できた。ただこの子山、海抜0メートルから登るので、結構きつかった。帰り道、多分疲れていたのだろう、則は足を滑らせてしまった。水があるわけでもなく、石に乗っかったわけでもなかったのだが、右足を滑らせて、左足を無理に折り曲げ、左手をつく格好で、かろうじて尻餅をつくのだけは避けられたものの、その後のダメージは強く、老化現象をまざまざと見せつけられた。(写真は大高森三条から見た夕暮れの松島遠景)

 旅館はそれから更に先である。曲がりくねった海岸沿いの暗い道を、バスは器用にカーブしながらかなりのスピードで走り抜けた。この運転手は絶対に急ブレーキを踏むことなく、かなり熟達した運転だったのが幸いだった。乗り心地も悪くない。2時間弱かかって、もう7時に手が届きそうな時刻にようやく牡鹿半島突端にあるホテルに到着。もっともそれが突端であることも翌朝でなければ認識できなかったくらいに闇の中の到着だった。

 部屋に入り旅装を解いても、風呂に浸かっている時間はない。則は左膝が痛いので、本当は風呂に浸かるのを第一と考えていたのだがこれも仕方がない。順さんもほんの少しだけといって横になったが、それも10分とは許されなかった。すぐに夕食の時間となった。しかしそんな疲れも吹き飛ばすような、夕食の充実した内容だった。熟年の豊かな人を対象にしたツアーに建国記念の日が絡んだ連休を利用してそれしかないので仕方なく高いツアー(氷雪のまつりと流氷と)に申し込んだことがあるが、その時の食事を越える内容だった。ところで宿泊した鮎川は捕鯨の町であり、国際世論の厳しい中にあっても現在も細々と捕鯨基地を維持し、主に日本近海でも操業をしている町だ。従ってここでは鯨が何よりのご馳走だ。でも刺身に出来るミンク鯨の捕獲量はわずかであり、刺身にほんの一切れと、お寿司一貫が付いてきただけ。順さんはあまりうまいものではないと言っていたが、則は別に一皿刺身を注文をして食べた(勝手に注文をした客は我々だけだった)。もうこれで鯨の見納めかも知らないので。

 風呂に浸かって体のあちらこちらをよくもんでから、9時過ぎに早々と寝入った。
15  旅の記録の二日目。ここも合作です。

 翌朝目を覚まして外を見ると前は海原で、眼前に大きな島が横たわっていた。しかしその時点ではこの島がまさか、今日目指す金華山とは知る由もなく、ボーッと眺めていた。風呂に5時過ぎに入り、6時50分頃から朝食。朝食を食べて部屋に戻ると、太陽はその金華山を背にして昇ってきた。朝の出発も早い。7時50分の集合で、直ちに出発。金華山にわたる船の出航時間が8時30分だからで、その前に御番所公園という高台に立ち寄る。その時に金華山と知ったわけだ。この公園の名前を音だけで聞いていた則は、「碁盤所」と考え藩主が風景を楽しみつつ碁を打ったところではとのんびりとしたことを考えていたのだが、実際はここは伊達藩時代に異国からの侵入船を監視した番所があったところで、風光明媚なところであった。(写真は御番所公園から見た金華山)

 あわただしく御番所公園の高台を下りて、船に乗り込む。乗り込む際にパンフレットとともに、サービスなのだろう、えびせんの小袋をくれる。これを海猫に渡すのだ。これが結構面白かった。海猫は器用に手でつまんだえびせんを口にくわえていく。言葉で書いてしまえばそれだけのことだけれども、訓練されているというのか、海上の風にあおられつつも、それはそれは見事に船に並行して飛んできて果てから受け取り、直ちに船の横方向に飛び去り、そしてまた船の後方から次の餌をねらうという格好で、数十羽が船の後を追いかける。現金なもので、乗客のえびせんがひとあたり無くなると鳥たちの姿もいつの間にかいなくなった。(写真は順さんの手からえびせんを摂った瞬間の海鳥)

 そうこうしている内に、我々の泊まった旅館の前まで来た船はそこから島に向かって舵を切り出した。船着き場に到着すると、そこには既に大きな鳥居がある。元々廃仏毀釈運動が起きる前は、大金寺とかいう寺であったらしく、現在のような形は明治以降のものらしいのだが。それにしてもまたここの道は急峻だ。それはそうだ。昨日の大高森もそうだったのだが、何しろ海面から山を目指すわけだから、ほんの少しの行程でもそれは結構急峻な道のりになる。そのために、金華山神社の無料のマイクロバスがあるが、それは年輩者に譲って歩き始める。ここの名物は鹿で、道ばたに何頭か出てきたし、木陰に休むそれを見ることも出来た。鹿のフンだらけの道を歩き始めて7分くらいのところに表参道と裏参道の分岐がある。我々は御利益のあるという黄金橋のある表参道を進む。やがて道は鬱蒼とした神社の森の中に入り、猿なども見ることが出来た。ようやく建物が見えてきてマイクロバスも止まっているところに出た。ここが本殿かと一休みすると、そこはまだ中間点であった。

 そこから70段の階段が続く。ここを昇っていくとそこが本殿だ。ここはお金に困らないことを祈るという、まさしく現代にマッチした現世的な御利益をいただけると言うところ。順さんも例外的にお賽銭を上げた。しかしこれが賽銭箱に入らず、その向こうに落ちた。どうやら我々には金持ちという言葉は無縁のようだ。おみくじを引いて、それから絵馬を買って、時間がかかるといけないので、早めに下山することにした。今度は裏参道を下った。これはマイクロバスの道で、比較的ゆったりとした坂になっており、海を眺めながら下ることが出来る。途中の草原に神社のトラックがやってきてクラクションを鳴らす。何のことかと思ったが、どうやら鹿の餌の時間らしく、鹿が走って集まってくる。面白いものを見ることが出来た。(写真は金華山神社本殿)

 下山して船の待合所で団子を買う。そうして時間を潰しているとやがて出航の10時15分になり、これまた往路と同じようにえびせんで楽しんで鮎川に戻った。我々は2袋もらった一つを残して置いて楽しんだのだが、一行の老婦人はわざわざ別途買い求めて、楽しんでおられたのが印象深かった。これで今回の旅の楽しみはおしまいだ。

 後は一路東京への道だ。昨日真っ暗な道を走ったところを、陽光を浴びながら走る。途中で支倉常長が出帆したという入り江を通り、11時30分には昼食場所へ。ここでの昼食はあまりたいしたことはなかった。我々は昼ご飯の後、ビールでホタテの串焼きを食べた。昼食場所は鮮魚が並んでいたが、我々は買い求めることはなかった。予定の50分を過ごしバスは帰路へつく。

 12時20分して東北道に乗る手前で、運転手が無線で交信を始めた。東京とこんなにクリアに聞こえるのかと思っていたら、高速に乗るところで一台のバスとすれ違った。今日出発した同じコースのバスだ。こんなにも早く正確に進めば来るのだ。l昨日の事故が改めて悔やまれる。

 ところでそのすれ違ったバスは満員の44名参加ということで、この土日の32名よりも多い参加だ。ご婦人達のパワー恐るべきというところか。途中で高速で3回の休憩を挟んで、バスは秋葉原に7時少し過ぎに付いた。8時15分予定だから、1時間は早い。新宿はここから更に時間がかかるので、ここでバスを降りて電車に乗り帰る。8時前に自宅に戻り、風呂に入り9時に就寝。早めに帰れてよかったが、則には満身創痍となった旅の終わりであった。
16  則は何日か前から足が痛いと言っていたが、土日の旅でさらに痛みが増したようだ。私はというと、山は引っ張ってもらって上ったせいかどこも痛くない。楽していたせいだ。また、久しぶりに昨夜はぐっすりと朝まで寝たので、気分的にも快適だった。

 ・・・遊んだ後の月曜日はつらい。しかし行かねばならない。体のあちこちが打撲で痛いのに鞭を打って出勤する。今日も相棒は休みなので、のんびりとしているわけにはいかない。その上に、時たまコンピュータが停まったと言っては、大したトラブルでもないのに、多くがやってくる。それでも午後は少しゆったり。学芸発表会の準備が始まっててんやわんやの中を、しっかりと定時に出る。月曜から飛ばしたくはない。

 家に帰ると、こりない奴らだ。また次の休みの準備を始める。今度は紅葉狩りの相談だ。実は今日午後友人から職場へ訃報のファクシミリが届く。51才の若さの現職の方だ。縁あって、2地区でご一緒させていただいた、少し先輩の方だ。ご冥福を祈らずにはいられない。何より健康で動けるうちが勝負なのだと、理由をつけ、旅行の計画を練る。
17  昨日は何でもなかったのに、今日は疲れを感じた。やはり年をとると遅くやってくるらしい。半袖でいたら、子供に40すぎて無理するんじゃないよ、と言われた。大分涼しくなってきた。

 ・・・今日は事務室のスタッフが戻ってきたので、一日の大部分を使ってノートパソコンの再インストールをする。Meをインストールしたのだが、このMe存外高機能なことだわかった。それにしても仕事の片手間というのは時間もかかる。
18  則がまた通夜に行くというので、さっさと帰宅して用意してあげる。しかし、こういうことは続くときには本当に不思議なくらい続く。3度有ったわけだから、ここで打ち止めと願いたい。

 ・・・仕事をしていればいろいろな場面に遭遇する。用務主事の場合もあった。教諭の場合もあった。教頭の場合もあった。この場合など今も忘れられない。教頭になったその年だったから。だが葬儀に行くほどの間柄の現職の事務職員の死には巡り会ったことは、不思議と無かった。今日通夜に行った。通夜の読経の始まる前までは、奥さんはづっと泣きっぱなしだった。焼香の列で待つ間に彼女を見ると気丈に挨拶をしていたが、その横の女の子の嗚咽をこらえて手が震えていたのが今も脳裏に残る。彼とは不思議な縁だった。最初にあったのはM市で、私が赴任した小学校の目と鼻の先の中学校にいた。その次に巡り会ったのは、友人の結婚式の時。彼が何と仲人だったのだ。だから奥さんの顔をも存じ上げている。そして、再びS区でこれも比較的近い距離の学校で巡り会った。彼は手術を数年前にしてはいたが、その直前までは組合の交渉もしていたくらいに元気だったという。遺族の悲しみが、その死がいかに突然であったかを物語ってた。Hさんの冥福を祈らずにはいられない。そして健康のありがたさを感じずに入られない。
19  明日は社会科見学というので、その準備をした。土曜日はこれまた授業参観というわけで、そちらの準備もした。が、こちらは終わらず明日に持ち越す。とりたててということはないのだが、普段と違うのは出来るだけ多くの子が活躍できるよう配慮することだ。どの親もそれを期待しているだろうから。

 ・・・月末に小学校で言う学芸会のようなものがあるので、生徒が遅くまで残っている。下校の5時半ギリギリまでいる。普段はだらしのない格好をしている悪ガキが、ギターを抱えて意気揚々としている。そう思った自分も、仕事とは無関係なコンピュータの調整で意気揚々としている。同じようなものか。
20  せっかくの社会科見学の日なのに、天気予報は最悪。それでも昼から雨と言うことなので、何とか予報通りにと祈りながらの行程となった。そのおかげかその通りになってホッ。無事終了したが、やはり外にでるとドッと疲れる。早めに就寝。

 ・・・今日午後予期はしていたものの全国の教職員のかなりの部分にとってショッキングなニュースが飛び込んできました。それは協栄生命の自主再建団園のニュースです。実はこの生命保険会社は、公務員弘済会という受け皿組織を作って、全国の教職員にかなり密着した業務を展開している、少なくとも公立小中高の人々にはなじみ深い会社なのです。具体的に言えば、各地の校長会なども後援したり関係者を送り込んだ入りしている、関係にあります。だからこのニュースはショッキングなニュースなのです。かくいう、我が家でも順さんが入っております。他人事ではありません。