7月26日(火) クチャ                    クチャ飯店(庫車飯店 KUQAR PLAZA ) 1212号室

◇キジル千仏洞、天山神秘大峡谷、塩水渓谷、ヤルダン地形の風景、クズルガハ土塔



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6.クチャ観光(1)

6.1 到着 0600着
 朝6時に到着。タクシーが待っていてすぐに出発。10分ほどでホテルに着き、しばらく休養。チェックインができないので仮の部屋ということになったが、ベッドもシャワーも使えるので、もったいない気がした。朝食もホテルですませた。だいたいそこの部屋の方が、後からあてがわれた部屋よりだいぶ大きかった。
 クチャは漢字では庫車と書く。その昔は亀茲国と呼ばれ繁栄したところ。

6.2 キジル千仏洞 0930〜1100 (8,10,17,27,32,34,38)
特別窟見学料 100×2=200 

 ここは中国でも古い石窟だ。莫高窟よりも古い。3世紀末から4世紀初頭のものから7世紀或いは8世紀初頭ころのものまである。そのために、まだ中国だけの文化というのでなく外国の影響を大いに受けているものが残されている。ほとんどが中心柱窟。亀茲国こそが中心柱窟の祖という考え方もある。
 ただ、ここもイスラム教徒によって破壊されているため原形をとどめているものは殆ど見られない。菱形が印象的だった。また、色はきれいなものが多かったように思う。ここで重要なのは、ラズベリー。ラズベリーはアフガニスタンの限られた土地でしか産出されない。鉱物による着色なので、経年変化をほとんど受けないために、これを多用しているキジル千仏洞は別名青の洞窟と言われている。これもNHKサイトで見ることが可能。この菱形が変形していって須弥山になったのかもしれない。
 着くのが早くて、少し現地のガイドを待つ。ここでも我々は個人見学。のんびりと窟を見学できた。入口には鳩摩羅什(クマラジャ)の像がある。彼はインド人を父に、亀茲王の妹という家柄。長安に300巻以上の仏典を翻訳した人として知られる。鳩摩羅什が訳したからこそ、日本にも例えば法華経は伝わっている。

<8>
 天井には菱形の因縁図、及び本生図。月神(回りに16の星)、日神、共命鳥(ぐみょうちょう、ガルーダ)、風神、五弦琵琶を奏でる伎楽天が描かれている。後室には涅槃台があり、沙羅双樹が描かれている。かまぼこ形の天井の中心に、入り口から順に、日神・風神・雷神・ガルーダ・仏立像・月神・入り口の上に伎楽天。それらに懐中電灯を当てて見るとイスラム教の侵入によって、顔はすべて削りとられている。以下の窟は全て同様。
 この画像はインターネットからここで見ることが出来る。なお、この写真は発色が悪い。実際の青い色の部分はもっと鮮明だ。

<10>
 僧坊。かまどの跡がある。寝台もあり、小さな窓もある。壁には、韓染然が遺跡保護を訴えた文が書かれている。おそらくは、莫高窟の北窟もかくあらんと思って見る。

<17>
 交脚弥勒菩薩はインドガンダーラ様式、5世紀のもので、本生物語もある。
※中心柱窟。弥勒説法図が主室の前壁の上方にある。弥勒は兜率天宮に座る。両側に法を聞く衆菩薩がいる。主室には、菱形格本生物語がある。この菱形格の形式を利用して物語を述べるのはギジル芸術の代表的なものである。

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 仏像はない

<32>
 菱形格因縁図

<34>
 天井や壁の剥落した部分は、セメントで補修されている。

<38 特別窟> 「楽天窟」
 一番古い。日本人に人気の窟。別名“音楽堂”とか”音楽窟”ともいわれる。入り口上に交脚弥勒菩薩図。琵琶、横笛、けんかん、ひちりき、手鼓、太鼓などを奏でる伎楽天、四天王と10人の弟子。側壁には、魚、蛇、鴨、蛤や動物などが描かれている。五弦琵琶を持つ伎楽飛天は正倉院御物のそれのルーツか。玄奘三蔵が著した大唐西域記には「屈支国(現在のクチャ)の管弦歌舞の方面の技巧は特に諸国に比べ優れている」とある。
 天井には菱形格因縁図がある。中心には日神や月神、風神、ガルーダなどがいる。後室には、涅槃と弟子の図がある。
※弥勒説法図は普通主室前室にあるが、この窟は主室にある。弥勒の足が交差して座る。小乗仏教は釈迦牟尼を尊崇し、次に弥勒を尊崇する。また主室には身を捨てて衆を救う本生物語がある。

6.3 天山神秘大峡谷 1320〜1515
 ギジル千仏洞で昼食をすませて、再び庫車へ戻る。
 途中近年発見された峡谷だという天山神秘大峡谷を見学。大きく聳える岩のわずかな隙間にできた道を通って進んでいく。ペトラへ行く道のようだ。始めは上りだったので、そして道幅が比較的広く強烈な日光を遮るものがなかったので、先が思いやられたが、後はずうっと平坦で曲がりくねった道だった。岩の色が赤くて不思議な感じがした。途中途中の岩にいろいろ名前が付いていて興味を惹かせるような工夫がなされていた。といっても、そう思えばそう見えるという日本と同じ。
 約1時間も歩いて行くと「千仏洞」の下に着く。殆どの観光客はこれを目当てに来るのだそうだ。ということで我々も目の前の階段にうんざりしながら上ることにした。たどり着いたところには番人がいて懐中電灯を貸してくれた。洞は3畳くらいの広さか。
 そこから引き返すのかと思ったら「ガイドさんが、この先は私も行ったことがない」というので更に先に進むことにした。が、その入り口があまりにも急で細いため、途中まで来て順さんはここでリタイア。則さんとガイドさんはかなり先まで行ったが、あまり変化はないということでしばらくして戻ってきた。
 結局そこから戻った。途中パラパラと雨が降り出してきたが、何とかひどくならないうちに車へたどり着いた。

6.4 帰路 
○塩水渓谷 1555〜1600
 行くときに見た白い川が塩水渓谷。回りの岩が赤いので、ひときわその白さが浮きたっている。帰りに写真を撮りましょう、と言っていたのを楽しみにしてきたのだが、その頃になると雨が激しくなって、ワイパーを最速で動かさねばならないほどになっていた。運良くちょっと小止みになったので、橋のたもとで車を降りて写真を撮ることにした。元気な則さんとガイドさんは下の河原までおりていって白い正体を持ってきた。水分が蒸発したために後に残された塩分の固まりだそうだ。
 雷も鳴って雨もひどくなってきたので早々に車に戻る。雨自体珍しい地域だというので、「その雨ですからお客さん運がいいですねえ。」と言われても、観光客にとっては・・・。我々はまたもや、エジプトに次いで、タクラマカン砂漠でも雨を降らせてしまった。

○ヤルダン地形の風景
 途中大地のようになっているところ。草木もなく岩がゴツゴツしているだけの所だが、非常に珍しい地形なのだそうだ。が、車の中から通りすがりに見るだけではあまりよく分からなかった。

○クズルガハ土塔 1625〜1635
 烽火台を見に行く。かなり大きい物らしく遠く離れたところから見られるのだが、なかなか着かない。驚いたことに塩水の枯れた川を車で渡ってようやく着いた。
 前漢時代に造られたそうだが、よくこんなに高いものを造ったものだと感心する。辺境の地から長安まで、1日程度で届いたということだ。


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