7月24日(土)                  緑洲賓館(The Silk Road Turpan Oasis Hotel) 4025室 泊

高昌故城、アスターナ古墓群、ベゼクリク千仏洞、火焔山、蘇公塔



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4.トルファン観光(1)

4.1 到着  トルファンに0510着
 トルファン(吐魯蕃)の駅に定刻より7分くらい前に到着した。北京時間採用なので勿論未だ真っ暗。何故か小雨が降っていた。そこから緑洲賓館(オアシスホテル)まではおよそ30分。真っ暗な道を走り、真っ暗なうちに到着。ホテルの門は閉まっており、クラクションを鳴らしても開かなかったので、運転手が開ける。チェックインをする。ホテルに入るものは我々のみ。
 入室後、しばし仮眠を取る。列車の旅は慣れているとはいえ、やはり疲れる。深い眠りに落ちた。7時半になったので、朝食に行く。朝食は、ビュッフェスタイルだが、正体のわからない食べ物が多い。ドーナッツ状のものが美味しくいただけた。
 支度を調えて、9時にホテルを出発する

4.2 高昌故城 0935〜1030
 車は街に出ると直ぐにブドウ棚の下を走る。トルファンはブドウの一大産地なのだ。こうして街にまでブドウの棚を作っていて、人々はそれを食べないのだろうかとも思う。はおよそ30分ほど走ると、火焔山の麓に出た。火焔山は西遊記の一舞台となっている。そこを走り抜けてしばらくすると、城壁が見えてくる。そこが高昌故城。
 この高昌故城を含め、トルファンの一体は、火焔山の話を持ち出すまでもなく非常に熱いところとして知られる。「火洲」とかつて表現されたくらいだ。この日も暑かった。40度は優に超えていただろう。またこの地は、非常に低い土地であることも特徴の一つ。中国大陸奥深くにかような低地があるのは不思議だが、トルファン南方のアイデン湖は海面下154メートルもあるという。これは死海に次ぐ世界で二番目のものということで、実際この高昌故城のあたりでも、マイナス40メートルくらいとのこと。
 入口は店屋がひしめいている。多くの呼び込みがあるが、そこを通り抜けてゲートへ。入ると、馬車(正確にはロバ車)が待っている。馬車は別料金らしい。我々を乗せるとそれで丁度一杯になったらしく、直ぐに走り始める。結構なでこぼこ道で、何処かに掴まっていないと振り落とされそうになる。しばらく土のかたまりの中を走ると馬車が止まっているところに至る。そこが馬車の終点で、そのあたりには比較的建物群が残っているエリア。
 高昌故城は日干し煉瓦の街だ。寺院や城壁と言った重要な建造物は二つの板の間に少しずつ土を入れて乾かしている構造なので、壁面の化粧が取れた現在の状態ではそうになっているのがわかる。その一方その他の建物はいわゆる日干し煉瓦構造なので、暑いという機構的なものによる破壊とともに、日干し煉瓦が格好な肥料になるということで、人為的にも破壊が進んでしまった。したがって、寺院等の特別な建て方をしたところが幾つか残っている。その寺院跡の一つにまず向かう。ここはβ寺と名付けられたところで、寺域は170×100メートル有り壁で囲まれている。中心奥には本殿とおぼしき部分が残っており、中心に一辺がおよそ5メートルの大きな柱がある。ここには正面にはおそらくは大仏が安置され、残り3面にはそれぞれおよそ20ほどの龕があり、ほのかに仏像の痕跡を認めることの出来るモノも未だ残っている。
 高昌故城の歴史は古い。紀元前には既にこの地に砦のようなものがあったらしい。そして時代は、麹氏高昌国の時代となり140年ほどそれは続いた。玄奘三蔵の話はあまりにも有名だ。この寺で、麹文泰の求めに応じて玄奘三蔵は講義をしたのだろうか。β寺院には本殿?にむかって右側に円形の建物がかなり原形を留めて残っていた。円形の4角は少し外から見ても出っ張っており、中にあっては丁度仏像を配置するような形に小部屋的に配置されている。こうした形はイスラムのドームの4角の天井にあるのと同じようで、興味を持った。
 β寺院を見学した後、遠望できる場所で、城門跡を見た。遙か彼方で、定かではなかったが、そこから大道が手前まで続いているのがわかった。そうこうしているうちに馬車の馭者が我々を探しに来た。どうやら馬車は約30分くらいで(或いは見学者が集まると)折り返すというルールになっているらしい。後ろ髪を引かれる思いでそこを後にして再び入口に戻ることになる。帰路は、馬車になれてきたので、遠くに見える等とおぼしきものなどを見ながら戻ることが出来た。入口付近は住居跡ということで、家畜小屋などに格好のもので、かつて荒れ果て放題になってしまったのだろうなぁと想像が出来た。
 この高昌故城は、玄奘三蔵の帰りを待たずに唐によって滅ぼされ、その後唐の西域監理は交河故城に移り、首都機能とも言うべき中心性は失われて行った。

4.3 アスターナ古墓群 1040〜1120
 アスターナ古墳群は、高昌故城の北、およそ2kmのところにある。高昌国の住民(身分の高い或いは金持ち)の墓地であった場所。ここはその後唐代まで使われたらしい。住民のと書いたが、実際400ほどの墓地が発見されているらしいが、王の墓はない。
 地上だけ見るとそこには何もなく、ただ漠然と広がった大地があるのみ。が、実はそこが地下墓地の集まった所なのだ。たくさんある中で、開放されているのはその中のいくつかだけ。所々には発掘して穴が開いているだけの、遠くから見ればこの後行くカーレズの穴を集約したような感じの場所だ。
 われわれはそこで、3つの墓室を見た。最初に72TAM215を見る。夫婦合葬墓。この土地には存在しない花鳥が描かれており、異国の地で帰らぬ人となり、墓室に魂の安らぎを見いだそうとしたのだろうか。
 そのあと、72TAM216墳墓を見る。ここは6面に分かれ描かれた壁画で有名な墳墓。しかしながら写真は勿論撮れない。6面のうち中心の4面には人物像が描かれ、左右2面にはその時代の生活具のようなものが描かれていた。全体で、中国のその時代の考え方(儒教的な?)が表現されているという。
 73TAM210という墓を見る。階段を下りていくと4畳半くらいの広さの墓がある。石棺の回りに壁画が残されている。が、石棺は既に無く、壁画の保存状態もあまりよくなかった。ミイラが残されていた。
 帰り際、出口でガイドさんがスイカを買ってくれた。冷たくて美味しかった。汗がおかげで一時引いた。

4.4 ベゼクリク千仏洞 1135〜1230 (15,17,20,27,31,33,39)
 特別窟見学料 200×2=400元

※ベゼクリク千仏洞は、火焔山近く、木頭溝西岸の断崖及び段丘にあって、高昌故城から10km、トルファン市から50kmの地点にある。長さ1kmぐらいの内に83の洞窟が分布している。40以上の洞窟に壁画が保存されている。
 この洞窟の初建年代は高昌国時代(460〜640)とされる。この時期の石窟の規模はあまり大きくなく、唐の西州時期までに(640年〜9世紀)更に発展していく。9世紀から12世紀が一番盛んになりそれ以後は衰えていく。14世紀になるとイスラム教が入り込んで大きく破壊されて遺棄されていった。20世紀になるとドイツ、イギリス、ロシア、日本などの探検隊が入り込んで盗掘し、更に大きく破壊されてしまい、大量の壁画が海外に流失してしまった。(以上、現地の解説書による。以下※の文も同様)。

 もうこの時刻になると汗が止まることなく吹き出してくる。ゆうに40度は超えているのではないのだろうか。
 ここはかなり破壊が進んでいるというが、その中の15窟が、最近NHKでデジタル映像化に成功したというので日本では話題になっている(NHKスペシャルの新シルクロード第2集〜トルファン 灼熱の大回廊)。そこが今特別に公開されているというので見学を申し込んだ。その入場券を買ってきたガイドさんが、どさっと券を渡してくれたのでビックリした。つまり、それようの券が無くて一般の入場券をその代金分だけ渡してくれたのだ。
 少し階段を下りていくと断崖に張り付くようにそれはあった。

<15 特別窟>
 最初に比較的入口から入って手前にある15特別窟を見学する。NHKでデジタル復元した窟。殆どは外国に持ち出されて煉瓦がむき出しになっており、原画は残されていないが、一部に名残がある。ドイツへ持ち出された分は、第二次大戦で消失した。立仏、比丘、菩薩など。
 ここは中心柱窟形式の窟。既に崩れて前室部分はない。左からぐるっと回る。左通路の中心柱の壁に、菩薩の足の部分であろうか、まだ鮮やかに残っているのがわかる。あとは背面の天井部分と背面の右側に一体だけ、他よりも少し破壊が激しかったために偶然に取り残された菩薩像がある。実際問題、日本を含めて各国がアスターナ古墳群などでも持ち去っており、各地に散逸したそれらをデジタル化して回収し、NHKは3Dで再現した。実際問題、この映像を見ていないと、この窟の価値はほとんど無い。

<17> 観無量寿経変図
 池に蓮の花が咲き、阿弥陀仏、観音がいる。大勢至の西脇侍菩薩は蓮華座に座る。

<20>
 前室(壊れた)と後室に分かれている。中心柱窟。後室には王様だけが入れるとされる。ウイグル文字(縦書き)が残されている。この頃のウイグル人は仏教を信じていた。外国に持って行かれ、ドイツのは戦争でこわされたため、写真だけしか残っていない。 
※洞窟中堂南内壁に高貴な王妃の像2人。北側には高昌王供養像3人並び。北の南壁には供養像。3人のお坊さんと頭上に漢文題記がある。南の北壁に印度僧人の供養像。3人の坊さんと頭上に梵文題記がある。人形の壁画でトンネル後壁南部にある。立仏世俗人物、比丘、菩薩がいる。
※後壁南側に本行経変図がある。大型の壁画で、宝物や珍珠を持って供養する長者や商人が描かれている。

<27>
 7つの仏像がある。壁は千体仏が描かれている。
※蒙古女供養人像。

<31>
 涅槃図。悲しむ弟子達が見て取れる。
※壁画の人物の帽子、服飾には独特な風格がある。供養人の相貌と服飾は特別な特徴を持っている。仏像の衣飾文様は細密である。

<33>
 涅槃物の頭側、壁画の人々は各種の楽器を持っている。仏はいい顔をしている。ここは秀逸だ。
※涅槃像の頭部の辺りの衆人たちは、各種の楽器をならす。左側に菩薩、右側に各国の王子がいる。

<39>
 大きい窟。金箔の部分が少し見て取れる。上にはお釈迦様の大きな像がある。
※上部に千仏図。

4.5 火焔山 途中で10分くらい
 山といっても富士山のようにはっきりこれとわかる形をしているのではなく、ずっと連なっているのを総称している呼び名らしい。かといって、山脈や山地という感じでもない。少し高い台地が広がっているという感じのところが、火焔山。行くときも帰りもずっと車窓に見えていた。本当に炎が立ち上っているように見える。これが夕日に染まると本当の炎になるのだろう。
 途中で車を止めて写真を撮った。

4.6 昼食 1315〜1430
 今日は民家を訪れての昼食ということであまり期待はしていなかったのだが、思いの外よかった。
 そこはブドウ街道(道が両側からのブドウ棚でアーケードのようになっているので勝手にそう呼んだ。そのブドウ棚の下にはたくさんのブドウ売りがいる。まさに町中ブドウで一杯という感じ)に面した民家で、一歩入るとその庭もブドウ棚であった。その下にテーブルと椅子のセットがいくつか用意されていて、民家といってもレストランのようなものらしい。
 そこで面白い食べ物があった。そばを揚げて山のようにうずたかく積み上げてあるものだ。食べてみるとおかしのようだった。他の食べ物も悪くはなかった。殆ど食べ終わったとき、そこの幼女が来て踊りを踊ってくれた。可愛いので写真を撮り、後で印刷して届けてあげた。

4.7 蘇公塔 1630〜1730
 ホテルでしばし午睡。こう暑くては歩き回るのもたまらん、ということで夕方から次の観光地へ行くこととした。もっとも夕方と言っても、午後4時は北京時間であり、実際は一番暑いさなかの外出となる。
 この蘇公塔というのは現地の人にとっては意義のある箇所なのかも知れないが、歴史的にそう古いものでもない。ただ塔の造りが凝っていてそこが自慢らしい。一体に共産圏は巨大な建物が好きだ。蘇公塔自体は、1779年、当時のトルファン郡王蘇来満(スレイマン)が父の額敏(オミン)の偉業を記念し建てたミナレット。モスク裏にはイスラムの墓地がある。蘇公塔には登ることは出来なかったが、モスクのファサード部分には登れた。ここから見ると、ブドウ畑がよく見え、またブドウの乾燥小屋も数多く見ることが出来て、ここがブドウの名産地であることを改めて感じさせた。

4.8 ウイグル民族舞踊 2130〜2220
 夕食の後はホテルの敷地内で行われる民族舞踊を見に行った。開始時刻前から入り口の前で呼び込みをしていたので、たくさん客が集まるかといってみたら、我々が一番乗り。定刻にはわずか4人しかいなくて、どうなるかと思ったが、やがて満員になった。
 かつてもう少し先のウズベキスタンでショーを見たときもそうだったが、どうしてもソ連の影響が見え隠れして、コザックダンス風の踊りが必ず組み込まれている・・・・と見るのは少しうがった見方か?


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