7月22日(金) 敦煌   敦煌ホテル泊

◇終日:敦煌市内・郊外観光 1,000年にわたり作られた世界遺産の莫高窟を見学


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2.莫高窟1日観光

2.1 午前見学 0900〜1100 (328,16・17、420,428,275,285,45,57,96)
個人ガイド料 8、000円×2=16,000円 特別窟見学料 135×2=270元

 朝はゆっくりの出発。(右の写真はホテルの中の天気予報の掲示板。最高気温は34度ということらしい。)30分ほど車で行くと莫高窟に着く。町を外れるともうそこは殺伐とした砂漠地帯。両側には所々に墓が点々としているので、尚のこと気分は落ち込む・・・かと思うとそうではない。やはりもうすぐ莫高窟という期待感の方が上回る。
 やがて遠くに緑が連なるオアシスが見えてくる。そこが莫高窟。写真で見慣れた九層楼が見えてきた。車を降りて少し歩いて行くと入り口に着く。そこで今日の専属ガイドさんと待ち合わせる。我々2人だけのガイドさんということで、16,000円も払った。その他に特別窟の代金として270元を請求された。ま、ゆっくり見たい所を見られるというので致し方ない。
ガイドさんは日本語を上手にしゃべる人で、説明も詳しくてわかりやすかった。また、人が少なくて、殆ど独占的に見学することができ、思いの外ゆったりとして満足のいく見学であった。(左の写真は、いわゆる「北窟」。窟の作成修復をする人々や僧侶が座禅をしていた場所。)

※以下、ガイドさんの説明をテープ起こし(ICレコーダー持参)したもの。できるだけ本などの資料と照らし合わせて間違いの無いようにしたが、本にない場合にはガイドさんの説明のまま書いている。ガイドさんの説明が違っている場合もあるかも知れないので、完璧かどうかはあまり自信はない。
★ 以下に星マークは「敦煌研究院」の当該ページ。画像が少しでもあった方がよいかと思ってリンクしてある。一応敦煌研究のフロントだろうし。

<328 特別窟> 初唐 7体の像が残る 
 正面に仏を中心にして8体の像が並ぶ。全体に赤と緑の彩色がよく残っていてきれい。
 仏の衣のしわやひだなど柔らかい感じに表している。仏の右に(向かって左)阿南。この人は頭がよく、釈迦の死後、その教えを記憶に基づいて書き留め、世に広めた人。左にいる迦葉は、苦行の人。眉を寄せて老人の姿をしている。その両側に菩薩。ふくよかな姿で。それは服のしわやひだにも表されている。その手前に供養菩薩がいる。本当は4体あるのだが、1体はウォーナーが持って行ってしまったので、3体しか残っていない。やや小さいが、丁寧に作られている。
 ※ウォーナーについては、「高橋 正幸」氏の2つのエッセイ(http://www1.ocn.ne.jp/~rakutei/warner.html と http://www1.ocn.ne.jp/~rakutei/warner-2.html が参考になる。)

<16・17> 晩唐 蔵経洞 ★(16) ★(17)
 入るとすぐに右手に小さい祠がある。これが17窟。覗いてみると、小さな洪べんの像が安置されている。これは、記念のために作られたものだそうだ。背後には菩提樹とその下に侍女と比丘尼の壁画がある。ここは、西夏の侵略に備えて貴重品を閉じこめておいた洞窟で、後にたくさんの巻物などが発見された。これらは殆ど外国に持ち去られてしまったが、隣の記念館にいくつかの資料が残されて展示されている。
 16窟は大きい洞窟で唐の時代のまま。仏の上に天蓋があるが、これは当時の皇帝の印で、仏は皇帝と同じ地位ということを現しているのだそうだ。

<17窟記念館>
 見つかった経文などの一部を公開している。少数民族のものもあり、それはいまだに解読されていないのだそうだ。模写がいくつか展示してあるが、10年以上にわたって中国の画家達が描いたもの。

<420> 随 ペルシャの影響 
 随は37年という短い期間しかなかったが、莫高窟にはその時代に造られたものが90以上ある。中国で仏教が盛んになった時代だからだ。過去、現在、未来を現す三世仏ができた。顔つきは、唐の時代は丸いが、この時代はそれに比べて四角という特徴がある。服装の模様はペルシャの影響が見られ、シルクロードによる交流が盛んになったことがわかる。周りの壁画の中に、飛天が見られる。ハープや横笛、縦笛琵琶などの楽器も見られる。孔雀石とか朱砂等で彩色されている。一部に少し金が残されていて、金も使われていたことがわかる。彩色の方法は、鉱物(孔雀石など)で行うものと人工的なもの(朱砂などに鉛を加えた)があり、前者はそのままの色が残されたが、後者は変色してしまっている。天井には、大乗仏教の法華教の内容が描かれている。すなわち、観音菩薩の力を念ずれば、様々な苦難から救われるというような内容である。

<428> 北周 本生図 
 北周というのは南北朝時代にあたり、莫高窟前期で洞窟の形も他と違っている。最大の中心柱窟である。前室の切妻式の屋根は中国の伝統である。洞窟は一つのお寺と考えられる。周りにたくさんの供養者の姿があり、これらの人々がお金を出してこの洞窟を作ったことがわかる。天井は、他の窟と違って粘土で作って貼り付けてある。今、無いのはそれが自然に落ちてしまったから。また、仏さん達の顔の描き方が目や鼻の輪郭がはっきりしているのは、ガンダーラの影響を受けているから。ここで有名なのは連続物語。法隆寺の玉虫厨子と同じ。本生図が2つある。一つはサッタ王子本生図という虎に我が身を与えるという話。もう一つはスダーナ王子本生図という自分の持っているもの全て、あげくには我が子まで物乞いに与えてしまうという話。
 色が黒く変色してしまっているが、元々はピンク色だった。

<275 特別窟> 北涼時代 交脚弥勒菩薩 
 莫高窟で一番古い。366年に造られた。西壁に弥勒菩薩の像。これは三世仏の未来の像。交差脚で、日本にはない形。顔はインド式で、直接伝えられたと考えられる。丸みのある顔で鼻筋はまっすぐ。目は丸い。台座に獅子がいる。壁には鳩をねらう鷹に我が身を与える本生図が、天井には千仏が描かれている。供養菩薩は像ではなく壁画として描かれている。ハープ、琵琶などの楽器もはっきりと描かれている。

<285 特別窟> 西魏(南北朝時代)   紀年銘
 保存状態がよい。538.539という紀年銘が残されている珍しい窟。横笛、鼓、琵琶、ハープ等を持った伎楽天12体が描かれている。500人の強盗が仏に救われるという五百強盗帰仏が描かれている。天井には人首蛇身の伏義や中国伝統の神様「開明」、飛天などがえがかれている。また、雷神や風神もいる。中国の伝統文化と外来の仏教芸術とが融合したものである。

<45 特別窟> 唐   7尊仏
 中央に阿弥陀如来がいる。跪いてみると、お釈迦様の目と自分の目が合うように造られている。左に阿南、右に迦葉がおり、更にその両側に2菩薩、2天王が置かれている。菩薩の衣は色がきれいで変色しないで残っている。特に迦葉と並んでいる菩薩は優しい面影、やや腰をひねった形などで「ビーナス」と言われることもある。
 壁には、観音菩薩に助けを求めてその神通力で救われたといういろいろな物語が描かれている。  

<57 特別窟> 初唐   菩薩の美しさ
 阿弥陀仏と2比丘(阿南と迦葉)、2菩薩がいる。
 南壁にある樹下説法図の菩薩の美しさは敦煌第一。冠などが盛り上がって造られている。装身具はきれいで素晴らしい。天蓋上部には、右にマヤ夫人が夢に見た白象に乗った前世の釈尊が人間世界に降下する絵、左には白馬カンタカに乗って城を出て出家する絵が描かれている。北壁の飛天は法隆寺金堂壁画と似ている。

<96> 初唐 九層楼 北の大仏 
 莫高窟といえばこれ。高さ 34.5mの弥勒大仏(北大仏)が、九層楼に収められている。下からずっと上を見上げるようにして見る。大仏を造ってから外の建物を造った。入り口からの床は、唐・西夏・元・清の時代のもの。則天武后によって造られた。

 これで午前中は終わり。ホテルには34℃という表示がなされていたが、多分もっと高かったのではないだろうか。暑い暑い。帰りにお土産屋さんによって資料本を購入した。他にもいろいろと勧められたが、我が家には縁のないものばかりだった。

 ホテルに戻って昼食を摂り、午後の出発まで部屋で休養。

2.2 午後見学 1335〜1430  (220,130,156,158,172・173)
個人ガイド料 8、000円×2=16,000円

 午後も専属ガイドということで、また16,000円也。午前の様子だと払わなくても2人で見学できそうな感じだが、これは日本を出る前に契約していたので仕方ない。
 午後のガイドさんも午前中と同じ人。そして、やはり予想通り人は少なかった。団体も中国の人ばかりで日本人はいなかった。聞くと、直前に半日騒動が各地で激しかったためか日本からの客は大半がキャンセルになって、日本語ガイドは暇なのだそうだ。
 午後も暑い中を見学。水は手放せない。(右の写真は敦煌遺跡の駐車場。遠くにちょこんと塔が見えるが、これは旅人への目印の塔であって、狼煙台ではないそうだ。)

<220 特別窟> 初唐期の規準。  法隆寺と同じ原型から? 
 当初に近い形で現れた、初唐期の規準となる壁画の残る窟。保存状態がよい。南壁には阿弥陀仏経変ずがあり、極楽の世界が描かれており、阿弥陀仏の下方に童子や菩薩などが様々なポーズでいる。童子の姿は、今日の子供の服装と似ている。上方には、飛来する仏や楽器などが浮かんでいる。北壁には薬師経変図があり、伎楽天が様々な楽器を奏で、その間で2人の女が踊っている。天井はきれい。落書きもある。

<130> 盛唐   南大仏  
 莫高窟第二の大きさで26m。右手以外は当時の原形をほぼ完全にとどめている。大仏の顔の高さまで上ることができる。両壁には巨大な菩薩像、天井には飛天が描かれている。これらは後に修理されており、これらの壁画の下に、盛唐期の壁画がある。この大仏は、壁に直接彫ったもので、洞窟としては一番大きい。

<156 特別窟> 晩唐   張議潮出行図  
 人馬100あまりを数える大きなもので、一番大きいのが張議潮本人。兵士や踊っている人がいる。踊っているのはチベット人と思われる。楽隊がおり、その中に反禅琵琶がある。これは敦煌のシンボルになっている。壁画はその時代のまま。向かい側に夫人出行図があり、先頭に曲芸する人がいる。
 
<158 特別窟> 中唐   釈迦涅槃像
 15.5mの大型の釈迦涅槃像。安らかな表情をしている。塑像涅槃像の背後には、嘆き悲しむ弟子や、菩薩達がいる。右側の方には諸国の王、その下には自分の身を傷つけて悲しみを現す人々の様子が描かれている。
 
<172・173> 盛唐   観無量寿経変図  ★(172)
 173は入り口付近にあって小さく、人が通れない程の洞穴。ただし中の方は広くなっており、像がおいてある。
 173は正面の窟。南壁の観無量寿経変が有名。無量寿仏を囲んで、説法を聞く菩薩達や仏がいつでも聞けるようにと太鼓や笛、ハープ、琵琶などの楽器が空に浮かんでいる。反禅琵琶の絵もある。説法図の後ろの3つの宮殿は、宇治の平等院に似ている。仏の背後の宮殿は、柱は近くは大きく、遠くは小さく描いており、簡単な透視画法を使っている。

<陳列館>
 午前中は9つの窟を回ったのだが、暑さのせいか、午後は5つのみで時間も1時間ほどで終わってしまった。それでもあまりの暑さにこちらもいい加減参っていたので、帰ることに否応はなかった。ただあまりに少ないと思ったのか、その後、陳列館に連れて行ってくれた。
 ここは鹿島建設が建てたものだという新しい立派な建物だ。中には莫高窟のいくつかが実物のように造られていた。暗くてよく見えなかった所もここならよく見ることができる。また、いろいろな言葉で書いた石碑があった。いろいろな民族がいたので、誰でも読めるようにと配慮したものらしい。「敦煌のロゼッタストーン」だと則は興奮気味であった。

2.3 お土産?
 帰りに、絨毯屋へ寄った。手織りしている所を見学という名目だったが、実はお土産を買わせたかったらしい。が、うちとは縁がない。(右の写真は、街の門とも言えるもの。かつての呼び名、「沙州」と書かれている。)

2.4 夕食
 夕食はホテルではなく、少し走ったところにあった。が、名前を見るとホテルの系列らしい。入り口を入ると音楽で歓迎してくれた。
 その楽隊を見ながら、中庭での夕食となった。他のグループが「敦煌」というラベルのこの地方のものらしいワインを飲んでいたので、我が家も頼んだ。宿舎は昨日と同様。

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