7月21日(木) 東京          敦煌ホテル泊   −機機

◇乗り継いで敦煌へ
成田空港(第二ビル(0950))−中国国際航空 CA422<全日空 NH5709便と共同運航(:3hrs30mins)>:Boeing757→(日本時間1310・北京時間1210)北京首都空港(Beijing Capital Apt)ここから中国時間-1時間(1420)−中国国際航空 CA1201:(1hr50mins):Boeing737-800→(1546)西安(Xi an Xianyang Apt)(1900)−中国南方航空 CZ6896(:2hrs):AirbusIndustrieA320→(2103)敦煌


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1.敦煌までの長い道のり〜

1.1 成田空港出発
 今回も出発は早い。特に早いといってよいだろう。
 依頼した旅行会社の指示は、成田空港のカウンターへ7時半に来るようにというものだ。従って、今回は成田空港に今までの記録よりも更に早く着く予定を立てた。普段なら利用しないタクシーを利用して家を後にしたおかげで、成田空港には6時28分に到着した。今までの最速は6時58分だから、30分早く着いた。さすがに空港はがらんとしている。駅でのチェックのゲートも数が少なかった。空港宅配を依頼していた荷物は取れたが、今回心配なので特に申し込んでおいた携帯電話の窓口は未だスタッフが来ていなかった。
 携帯を受け取ってから、カウンターに行き成田〜北京首都空港間の搭乗券と、北京〜西安及び帰路の烏魯木斉〜北京・北京〜成田のCA(中国国際空港)分の航空券をもらう。その後、マックで朝食を食べて、早めに出国審査を受ける。右の写真は、早く空港に着いたので、丁度空港職員(警備員?)の朝の点呼をやっているところにお目にかかった。

1.2 敦煌へのあこがれとその遠さ
 今回最初の訪問地である敦煌。また今回の旅の中心でもある敦煌。それは順さんのあこがれの地でもあった。映画「敦煌」を見て、いつかは訪れたいと思ってはいたが、敦煌はあまりにも、当時遠く感じられた。実際問題、最後の訪問先であった烏魯木斉(ウルムチ)までは、北京からかつては列車で60時間の旅であった。現代でさえ、成田北京間の距離を凌ぐほどの距離にあるという絶対的な距離関係は変わってはいない。私たちは、二人で敦煌まで行く間に、航空機を2回乗り継いだ。最初に北京。北京は2008年のオリンピックに向けて、以前にも増して急激に変貌しつつある。ただそのことを味わうだけの余裕もなく、入国をすませて、現地の案内人を捜した。乗り継ぎを手伝ってくれる人だ。この7月から入出国のシステムが一部かわった。資料があまりない。機内で入国関係書類として渡されるものは3つ。入国カード・健康チェックカード(これも実はエイズや鳥インフルエンザなどで形式や検査が変わることがこれまでもあったともいう)に加えて、税関申告書が必要になった。これはこの旅行の後に行ったイタリア旅行の時に聞いたのだが、サーズの時には別の措置があったという。時に応じてかなり変更のある国のようだ。さて最初に健康チェックカードを渡す。そして入国審査。北京で降りたことはあるが、それはもう10年も前のこと。まったく記憶がない。北京経由は去年もしたが、かなりトコロテン式に終わった。入国審査が終わって税関申告書。これも難なく終わった。実際に手助けが必要なのはこの後だった。
 北京空港は拡張中で、現地の係員の手助け無しには、スムーズに国内線への乗り継ぎは不可能だったろう。入国審査や荷物の受け取りを含めて2時間での乗り継ぎはかなりきつい。
 国内線の搭乗手続きは、国際線から離れた場所にある。現地の係員と3人は足を急いだ。幸いにして搭乗手続きはそう待たされなかった。しかしながら、ここで順さんのスーツケースが問題になった。スーツケースを開けろと言うのだ。まぁ理由はわかっていたので、そうあわてないで済んだ。緑茶とウーロン茶のペットボトル2リットルずつが問題になったのだ。中国はペットボトルにめっぽう厳しい。その理由は、ガソリンを入れて乗り込んだ輩がかつていたかららしい。実物を見て係員は納得してくれた。我々も出しやすい場所に入れておいたので、開梱と梱包もスムーズにいった。(写真は成田からのフライトの機内食)

1.3 変貌してゆく中国
 ところで、2回の乗り換えで、我々が一番心配したのは、これまで何度か経験した中国では飛行機がまともに飛ぶことが少ないという経験だった。しかしながら、そのようなことは今の中国、というか今年の中国と言うべきだろうか、まったく感じられなかった。
 国内線においては30分前に国際線においては45分前のチェックイン完了体制の徹底が、定時よりも早い飛行を可能にしていた。これは逆に日本でも見習うべきことだろう。もちろん2008年のオリンピックの影響が大だろうが、オリンピックを控え、沿岸地域の利益を奥地へ還元してゆく政策が停滞することによる格差の拡大が心配される。
 空港内の表示もかなり改善されていた。以前は、中国人の動きを見逃さないようにしていないと、搭乗口変更がただアナウンスされるだけのこともあったが、表示もきちんとしたものになっていた。

1.4 西安空港
 西安の空港に降り立つのは2度目だが、かつてのそこではなかった。西安空港もまた新しくなっていた。このかつて中国の中心であった古都においても、変化は確実にやってきているという印象だ。その新しくなった空港に降り立った。北京でもそうであったのは当然ながら、表示が見やすく旅行者に提示されているので、空港で迷うというようなことはまず無いと思われる。我々も、アライバルの表示に従って、異動して、ターンテーブルも間違うことなく発見し、荷物も回収した。ところで荷物だが、扱いはかなり丁寧だったと思う。ただ外観はかなり汚れた。
 西安空港では、現地の係員との接触に若干ミスがあった。我々が係員を見落としたのか、係員が見落としたのか、プラカードを持って出迎えに来ている人が殆どいなくなっても、発見が出来なかった。これには困った。というのも、航空券は現地で発給してもらうことになっているからだ。航空券さえあれば、あとは何とか聞いていけばよい。幸いにして、ここでの乗り換え時間は、3時間近くありしかも入国審査等はないから、充分すぎる余裕がある。時間的にもほぼ定刻に西安に着いている。
 こういう時のために今回新しい手段として携帯電話をレンタルしていた。幸い最終的には、日本時間との時差も1時間しか無く日本の旅行社にも電話可能な時間帯であった。そこで烏魯木斉にいるという、最初に現地の日本語可能な電話先にかけてみた。しかしながら、つながらない。次にどこに電話しようかとリストを探していると、若い女性が声をかけてきた。西安空港でサポートしてくれる係員であった。聞けば、彼女の方も探していたようで、国際線の方まで探しに行ったということだった。
 ここで、北京で両替できなかった我々は、彼女に依頼して5万円ほど両替をしてもらう。西安の空港には両替所がないという。そんなものなのか?とも思うが、致し方なく彼女に依頼して、CDで現地通貨を降ろしてもらって、相当金額の日本円を彼女に渡した。ありがたかった。というか、北京でまず両替をきちんとしなければならなかったのだが、どうも北京の係員は時間を気にしてそのことを後回しにしていた。結果、国内線ターミナルに入ってしまい、もはやそこでの両替は不可能であることをその時知った我々だったのだ。
 会ってしまえば、時間が余りすぎているという現実がある。まだカウンターも開かないという。近くに見るべき所もないということなので、しばらくはボーとして過ごす。係の人は忙しい人だ。ひっきりなしに、友人だか仕事だかわからないが携帯が鳴る。聞けば、あと数日で日本に行くという。日本の大手旅行社の招待で、東京・石和・箱根に行くという。帰国日が丁度彼女の帰国日と一緒で、成田ですれ違いになる感じだった。

1.5 いよいよ敦煌へ
 今回は予め言ってあったということもあり、順さんのスーツケースの中の水もチェック無しに無事に通過した。ただ手荷物の中の水がチェックの対象になった。まだ開いていないペットボトルを開栓して、中の臭いをかいで、無事おとがめ無しに通過した。ところで飛行機の座席だが、通路側にしてください、と言ったら、何と通路を挟んだ2席だった。なるほど、こういう取り方をするかと、あきれるやら感心するやら・・・。
 機上の人になって、最初に干しぶどうが飲み物と一緒に配られた。えっこれだけ、今日の夕食ついていないにのに・・・と思った。街に出るなり、ホテルなりでも食べられるだろうが、それは疲れていて億劫だから、機内食が出るというデータを信じていたのだ。ちょっと動揺したが、じきに食事も出てきた。一種類だけだったが、ありがたく頂戴。
 こうして無事に敦煌に着いた。敦煌では、利用した旅行社の黄色いプラカードが直ぐに目に入った。現地ガイドの女性とスルーガイドとともに、宿泊地に向かった。到着したのは9時過ぎだったが、北京時間なので未だ充分に明るかった。街までは30分弱。明日の予定を概略聞いて、とりあえずベットにもぐり込んだ。
 ホテルは、改装されているが、歴史を感じるホテル。何故かと言えば、友誼商店(フレンドリーショップ)が併設されているし、我々が通称鍵おばさんの部屋と称している、各階毎のカウンターデスクが設置されていたから。勿論それは今は放棄されているが、共産圏ではかつては、フロントではなく各階エレベーターの場所に設置されたこうしたところで、鍵の受け渡しをしていた。ソ連で言えば、インツーリストの時代の名のこり。

★敦煌賓館 [ Dunhuang Hotel ] 1212号室

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