8月18日(月) 快晴 40度
0500 起床
順さんの目覚めた時間。勿論則はこれより早く起きている。
0600 朝食
昨日と同じ場所。今日は鳩だけではなくカモメも来ている。目に入る景色はとてもよいのだが、落ち着いて食べていられないのが欠点だ。
0900 出発 歩いて旧市街へ
さて、今日は旧市街観光ということで歩いて出かける。もう暑くてたまらないくらいに気温が上がっている。先が思いやられる。(右の写真は、ホテルの前でまるでアフリカ探検の様相の順さん)
0910 旧市街観光(ブロチェ門・聖ブラボ、地図・内戦被害の図、聖ドミニコ修道院・門が修理中、大砲ののぞき穴、ルジャ広場、時計塔・マロン君とバロン君、ローランドの柱・商業の神、スポンザ宮殿、オンフリオの泉・小、市庁舎・カフェ、旧総督邸・民族踊り、大聖堂、城壁0945〜1030、聖フランシスコ修道院・薬局、自由時間)〜1245
<始めに> レヴェリン要塞から橋を渡ってブロチェ門へ出る(1)。この門は、街の守護聖人ブラボが左手に街の置物(?)を持った姿が掘られている。このテーマは反対側のピレ門にもある。
<内線の傷跡> 少し行くと内戦の被害の様子がわかる地図があって、一応そこで説明を受けた。1992年に壊滅状態になったらしいが、その後復旧に努力してきてかなり元の姿に戻ってきているそうだ。下図にあって、■赤く表示されている所は戦果で燃えてしまった所(Facility burned by fire)で、●黒丸がダメージを受けた歩道(Direct
inpact in the pavement)、▲黒三角が屋根を砲弾で破壊された所(Roof dameged
by direct impact)、△白三角が砲弾の破片が屋根を貫通した所(Roof dameged
by shrapnels)と解説されている。この地図の上部の方に山があって、そこを超えてきたユーゴの軍隊が砲撃を加えたのだから、たぶんひとたまりもなかったことだろう。
なお、この写真の中に赤いまるでのように表示している所は、以下の本文の(13)と言うように表記した所と対応している。
ただ、まだ始めに右手に見えてきたドミニコ修道院(2)は修理中らしく、門は木の板で覆われていた。ルジャ広場に面した聖ブラボ教会も入り口が同じように木で覆われていた。
<ルジャ広場> このルジャ広場(3)でまず目に入るのは、ピレ門までずっと続くプラッツア通りの様子。道の両側にはずっと店が並んでいる。実際には300mほどらしいが、ピレ門へ向かって遠近法のような方法で道が造られているため、それ以上の長さに見える。(地図で黄色い線で示した所)
この広場の中心にローランドの柱がある。元々はアラブ人を破った北欧の聖人ということで、独立と自由の象徴なのだそうだが、その後、商業の神様として、各港港に祀られるようになったそうだ(左写真・背景は聖ブラボ教会)。おもしろいことに、公国時代の基準単位はこのローランドの肘の長さだったそうだ。そしてその長さは台座の一辺の長さでもあったと言うことだ。
周りには、メーンの建物が集中していると言ってよい。まず時計塔(4)。鐘突はマロン君とバロン君という二人の男の子。ちなみにこの時計塔は古くなって危なくなったので立て直した物。先の内戦の時の出来事かどうかは説明を聞き逃したが、したがってバリン君・マロン君とも2代目という事になる。
その前には小さい方のオンフリノの泉(小さい方の物)がある。
そして左にはスポンザ宮殿(7)。中に入れないので外からゴシック・ルネッサンススタイルの建物を楽しむ。振り返って時計塔の右側には、市庁舎。今はカフェとなっている。
その先には旧総督邸(6)と大聖堂(5)がある。旧総督邸の前では民族衣装を着た男女が輪になって踊っていた。この時期はサマーフェスティバルの時期で、様々なこうした催し物が行われている。
<城壁> 一通りざっと見回してから、まずは城壁を歩くこととする。暑くなる前にと言うことだったが、もう十分に暑い。
城壁へは大聖堂の裏の方から上った。ちなみにこの道少しわかりにくい。大聖堂を左手に回り、水族館の案内に従ってしばらく進むとよい。入り口は始めちょっときつい上りだが、上がってしまえば後はほとんど横に進む感じだ。途中に大砲あり、見張り所ありで、確かに戦いに備えて造られたものであることがわかる。それにしても、大砲の前の則の格好は奇妙としか言いようがない。
我々は右回りに進むので、左側には海と島、右側には町並みが見える。暑くてたまらなかったが、歩いてみる価値のある景色が見られる。さすがに観光客も多くて、狭い所では反対側から歩いてくる人とすれ違うのに苦労した。また、大きな無線機のようなガイド器を持って回っている人も沢山いた。我々は、それも無し、解説も無し、ただひたすら暑い中を歩くのみだ。それでも十分に堪能した。ただ所々にある無惨な残骸に戦争の傷跡を見て、現実を思った。
2枚の写真の左側だが、完全に破壊し尽くされてしまっている建物も中にはある。またその右の写真だが、オレンジ色のきれいな瓦と縞模様になってしまっている古い瓦の屋根の2種類が存在することに気づくだろう。まだら模様に見える物は旧来の瓦で戦禍を免れた建物だ。オレンジ色の物は壊されてしまったために、屋根を新しくした建物だ。
こうして我々は約城壁の3分の2から4分の3を見て歩いた。おそらくはヨーロッパの観光客だろう、そうしたヒトは、男も女もほとんど裸同然の姿で歩いている人も多かった。それほどに暑い。おまけに逃げ場がない。石畳だから諸照り返しが返ってくる。定かでないかもしれないが、右の写真で順さんはしっかり「うちわ」を手にしている。
<オンフリノの泉> ピレ門の所まで回って、下へ降りた。そこには大きい方のオンフリノの泉(8)があった。予想していたよりも大きかった。これは、15世紀に造られたもので、回りの掘られた動物の口からは冷たい飲料水が流れ落ちている。この水のおかげで、昔の人も我々も大いに救われた。(この国の飲料水は石灰岩の地中を流れ出た物で、硬水ではあるが問題なく飲める。)
今ひとつの縦位置の写真は、ピレ門(9)の方から眺めたプラッツア通り。やはりこの方角からだとダイナミックさが無いことがわかる。左側の手前の建物が次に訪れた聖フランシスコ修道院。画面奥の方に小さくひょこっと見えるのが時計塔。丁度この位置からみて左側に町は広がっており、その部分の城壁を回ってきたことになる。
<聖フランシスコ修道院> 狭い入り口を入っていくとすぐに薬局がある。写真用の用にしっかりミドリ十字がある。そこが聖フランシスコ修道院(12)。ここは今も営業している。が、実はものすごく古くて、ヨーロッパでも3番目の古さを誇っている。薬局を通過してゲートを入ると、回廊に出る。回りの壁には様々な絵が描かれている。それぞれの部屋には埋葬された人もいるようで、その人を現す紋章のようなものが入り口付近に彫られている(描かれている?)
少し進むと薬学博物館があって昔の調合の道具や薬などが展示されていた。勿論それをするのはここの修道士。黒い修道服を着ていた所から、黒の修道士と呼ばれている。しっかり説明してくれたが、何しろ暑くて説明も中途半端に聞いて柱に寄りかかったり少しの段差の所に腰掛けたりで体を休めた。疲れもかなりピーク状態だ。
ところでこの修道院だが、中庭は薬草の畑になっている。つまり、東洋的に言えばこの時代の薬品というのは、丁度漢方のような物であったらしい。今でも営業している薬局では、タッチパネル式のコンピュータがあり、自分の症状にあわせた物を言葉が通じなくても選ぶことが出来るようになっている。ただし日本語はない。
<レストラン通り> その後もまだ観光は続く。修道院の裏手の方が、レストラン通りとなっている。プラッツア通りの時計塔方向に向かって左側は斜面になっており、プラッツア通りと平行の道が斜面に造られている(内戦被害地図の中にピンク色で引いた所)。ずっと続く細い道の半分を占領する形で、いくつものレストランが続いている。昔はなかなかよいものを食べさせてくれたのだそうだが、最近は観光客相手ということで質が落ちているのだそうだ。添乗員さんに言わせると、新鮮なものは少ないので入らないほうがよいとのこと。
途中に樹齢500年のブドウの木や小さなシナゴークを見ながら聖ドミニコ修道院(10)まで行った。修理中で中に入ることはできなかったが、ここは白い修道服を着ていたことから白の修道院と呼ばれる。
<旧総督邸> 先ほどは前を通過しただけだったが、今回は中を見学することになった。入り口には先ほどの民族ダンスの人たちの代わりに赤い衣装を着た門兵が立っていた。順さんは早速記念撮影。
中に入るとまず広間に出る。胸像が目に入ってくるが、これは17世紀の総督で、全財産を公国に寄付した人なのだという。(この頃のクロアチアは、ハンガリーオーストリア帝国の支配下にあった)。それから、握った手の付いている手すりを伝って2階へ。
ここには、貴族の肖像画や貢ぎ物(日本からのもあった)、執務室などがあった。
右の写真は、総督亭の中にある有名な?手すり。
<大聖堂> 大聖堂と名の付く所はこれで何カ所目だろう。高い塔を持っていてかなり大きい。中に入ってみるとなかなか立派な造りだ。中でも、大理石で造られた祭壇は豪華で、そこに掲げられている「聖母マリア被昇天」はイタリアのティツィアーノによる。
<自由時間> その後昼食時間まで自由時間となった。が、もう暑さに耐えられない我々は、まず銀行へ行って両替をし、少しの涼を味わった。ちなみに、街角の両替屋よりも、この国では、銀行の方がづっとレートがよいそうだ。
それからワイン店を見学してめぼしいものに目をつけ、後はのどの渇きを潤すためにアイスクリーム屋を探し回った。こういうとき順さんの嗅覚には驚くものがある。まっしぐらにそこに向かっておいしいおいしいソフトクリームを食べることができた。
その後は大きいオンフリノの泉へ直行。冷たい水は温められた体には心地よく手と言わず頭まで冷やしてただひたすら昼食の時間になるのを待った。
集合時間15分前になったので、先ほど目を付けておりたワインを買いに教えられたセラーへ行く。ここでワインを2本買う。ただし、あくまでもこれは我々用。そう保管状態がよいとは思えないからだ。ドヴロヴニクのラベルの付いたワインとギンガッチを買って集合場所のオンフリノの泉の前に戻る。
1300 昼食(スパゲッティイ・魚)〜1430
昼食は、何と先ほどのアイスクリ−ム屋の横。そこで食べたスパゲティは美味しかった。この旅行の中で一番かもしれない。
1520 ホテル着 休憩
食事の後も自由時間で、人によっては対岸のロクルム島へ行った人たちもいたが、我々は暑さに参っていたのでひとまずホテルへ戻ることにした。
途中、ロクルム島へ行く桟橋のある旧港(11)に立ち寄った。
それから、左の写真の建物(13)を見ながらホテルへ向かった。ここは、その昔外国帰りの船乗りたちを一定期間か留め置いた場所。1ヶ月程度留め置いて、なお健康であれば上陸を許したという。したがって、ドヴロヴニクでは黒死病と呼ばれたペスト等の流行を避けることが出来た。またフランシスコ修道院のような施設もあり、その昔から高い医療技術をクロアチアは誇っていたらしい。
海岸沿いに行くと宿泊者専用の入り口があるのでそこから入った。部屋に戻ってまずやったことは洗濯。とにかく汗びっしょりになってしまったのでまずはそれを洗った。そして一休み。
1830 自由散策(ピレ門方面)
今日の夕食は自由食なのだが、添乗員さんが用意してくれたコースに便乗することにして、それまでの時間少し旧市街をもう一度散策することにした。
今回はピレ門の辺りをメーンにしたので、シナゴークに立ち寄った程度で真っ直ぐプラツァ通りを西へ。もう城壁への上り口は閉鎖されていた。
門にはやはりドブロヴニクを持った聖人が彫られていた。これも聖ブラボなのだろうか。門まで階段とともにスロープがあったのを見て、順さんは「なるほどよく造ってある。これなら車いすでも大丈夫だ。」と言って則に笑われた。昔は車椅子ではなく馬車が通るものだと。なるほどそうか。
1940 夕食(手長エビ、ロブスターなど一人1万円)〜2200
夕食はかなり豪華。一人5000円くらいということだったが、6000円かかった。おまけにワインをボトルで頼んだり、デザートやコーヒーまでつけたので一人1万円にもなってしまった。クーナがなかったので円で支払った。実は則がレストランに着く直前になって財布を部屋に置いてきてしまったことに気がついたからだ。何故そう分かるかと言えば、デジカメで見ると、ホテルを出てからづっと持っていなかったからだ。順さんにしかられた。
それから暗くなった市街をふらふらしながらホテルへ戻ることにした。昼間は人で混雑していた所もチラホラという程度の人となり、またそれぞれがライトアップされていて昼間とはまた違った町の様子だった。また昼間は固く扉を閉ざしていたスポンザ宮殿も中に入れるようになっていた。何か展覧会のような雰囲気で、作品が並べられていた。ここは大地震の時に崩れなかった貴重な建物だそうだが、それにしてはあまり脚光を浴びてないようだ。昼間もことさら説明がなかったからだ。
2415 就寝