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説明

 以下に掲載する文書は「全事研会報125号」に木村さんが寄せた文章です。1年間を総括した文章となっていますので、ここに掲載させていただきます。



全事研会報第125号(平成8年3月18日発行)

あれから一年が過ぎて・・・・・

 私たちの想像を遥かに越える大きな被害をもたらした阪神・淡路大震災から一年が過ぎました。大変お忙しい中、神戸市の木村さんから原稿を奇せて戴きました。


神 戸 市 教 職 員 と し て

              神戸市立福住小学校 事務職員  木村信哉

 今年の1月の時点で、死亡者数が6,300人を超えたという阪神・淡路大震災。あらためて犠牲となられた皆様のご冥福を祈りたい。そして、1年を過ぎてもなお犠牲者数すら確定しないという現状で、生き延びた人々の健闘に心から敬意を表したい。
 全事研を始めとする全国からの暖かい支援に励まされながらの1年であったと今更に思う。いつでも、どこでも同規模の地震が起こっても不思議ではないこの国にあって、寄せられた善意への感謝を込めて、少しばかりの経駄者として1年を振り返りたい。
 まず、被災校としてのこの1年間を仮に区分するとすれば、最初は当然「混乱期」である。
 地震直後は、学校は命辛々避難してきた住人であふれかえり、文字通り立錐の余地もなく、人々はただ身を奇せあって寒さと恐怖に震えていた。そして、その誰もが情報を含むあらゆる現代的なものから切り離された。とにもかくにも学校に駆けつけた教職員にとっても、それは同じであった。情報の遮断は、光熱水や食料のように「生」を直接に脅かすものではなかったけれど、避難者の不安を倍加した。
 教職貝は、24時間続く避難者への対応のわずかな間隙に、校区の状況、児童・生従とその家族の安否の確認、及び学校自体の被害状況の把握に奔走した。校長の仕事も教員の仕事も事務職貝の仕事も区別はなく、ひたすら働いた。伝えられる情報は極端に乏しく、情報の伝達手段そのものが正常な機能を失っていた。
 1月も終わりの頃になって「再開期」が始まった。児童・生徒数を遥かに越える避難者を抱えた学校でも、避難所としての機能の維持とともに、一刻も早い教育再開を目指して苫悩していた。
 校舎の被害の程度によっては、他佼やあるいは「水族園」等までも借りて、午前・午後の2部制であれ、複式学級方式であれ、とにかく児童・生徒を集めた。その最初の「投業」で、級友の死を告げねばならなかった。
 災害対策本部はまだほとんどの学校に無く、ボランティアの活躍が、人数・内容ともに充実してきた時期である。
 教職貝の仕事も、ようやく本来の分担へと向かいつつあった。私たちも施設・設備の点検や教職員の現状の把握と、当面の処理に従事する時間もできた。
 「整埋期」は2月中句からとなる。避難者の間では自治組織化が進み、白立への模索が始まった。私たちにとっては、財務電算システムが再開し、応急の予算措置が可能となった。同時に端末機を利用した電子メールでの情報の伝達が開始され、郵送による文書の往復も始まった。また、破損備品や施設への文部省の現状調査が実施された。
 教職貝の宿日直も継続しており、避難所対応業務も以前と同じように行ったが、「教育」の正常化に向けて日常業務も激増した。当然のことながら、「収集・報告・連絡・相談」という事務職貝への二一ズも正常化され、各方面の仕事が爆発的に増加した。
 新年度予算が決定した4月以降は「回復期」である。すべてが正常化したわけでは決してないし、復旧やましてや復興などは見通しも立たない。それでも、やはり緩やかではあるが回復している。おそらくこの回復期は数年続くのだろう。折りしも、今日神戸市の新しい「防災計画」の概要発表があった。組織も施設も設備も今後充実して行き、人々の安堵はこの震災の記憶を遠いものとするだろう。
 しかし、忘れないで欲しい。区役所の窓口に両親の死亡通知を差し出した少年は、一足飛びに大人になるのではないことを。私は教育に携わるものとして、彼や彼女たちを、神戸の教育を復興するという自らの仕事を通じて見守りたい。
 皆様の支援をあらためてお願いする次第である。


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