私時間がないの!手っ取り早く知りたいの!そうした要望を受けて、このページを作りました。(詳細はかっこ内の日付の日記のところを見て下さい。)
1.癌を発見したとき(1998年4月20日)
それは突然のことだった。何の気無しに右胸に手をやった時に触れた大きな痼り。今まで感じたことのない手応えだった。「何だこりゃー?」・・・にわかにはその異物を受け入れがたかった。と言うのも、その2ヶ月前には人間ドックに入っていて、確かにそのときに異常を感じた医師から念のために「マンモグラフィー」を撮っておきましょうと言われはしたが、その結果も乳腺症の疑いがあるが今すぐにどうということもないと言われていたからだ。ただ、そう言われてから気になって時々胸を自分なりに触っていたのが、幸いしたといえる。
翌日早速人間ドックを受信した(カルテのある)病院に行くと、医師もびっくりして手際よく自ら超音波の検査をしてくれた。痼りの大きさは2.5cm。さらに細胞検査のために太い注射器のような物を患部にさして細胞を吸い取った(これは全く痛くはなかった)。細胞検査の結果を待たないとはっきりとは言えないが、という前提のもとに、廊下にいた則裕も招き入れられて手術の話と相成った。そう、すぐに手術の話となったのだ。今すぐにでも入院して、という医師の言葉を遠くに聞きながら、仕事のことがめまぐるしく頭の中で回転していた。とにかく細胞検査の結果が分かったら職場へでもすぐに連絡をということでこの日は帰宅。途中の本屋で「乳癌」に関する本を買って、乳癌とはいかなる物かを知ることから始めた。
2.手術方法とその選択(1998年4月23日)
医師は、手術の説明の中で、「乳房を残す方法もあるが、まだ今のところは確立していない。全部取るようになるでしょう。本当は、今すぐに入院してもらって、少し切り取って、検査をして悪性だったらすぐに摘出という方法を採りたいんだが。」と言ったが、その否定したやり方が記憶に残った。帰宅後、先に乳癌で手術をした友人に電話をしてその辺のことを聞いてみた。彼女は、乳房を残す方法で手術している。こういう友人がいたのも幸いだった。そして、彼女からその医師を紹介された。が、この段階では、まだ迷いがあった。紹介された病院が家から遠いこともあって、また費用がかさむことも考えて、はじめの病院でいいかという気になっていた(はじめの病院は職域病院で基本的な部分の費用はかからない)。
が、則裕はそうは簡単に決めなかった。インターネットを駆使して乳癌に関する資料を集め始めた。それは私が眠ったあとも続き、翌朝、目が覚めたときには膨大な量となっていた。そして、結論が出ていた。「乳房を残す方法でやろう。」だった。
さて、その乳房を残す方法とは、温存療法という、患部だけをくりぬくという手術方法だ。
3.検査について(1998年4月24日〜5月12日)
翌日、意を決して、まずは友人というか乳癌先輩のFさん(彼女はまた仕事の上でも大先輩だった)から紹介されたK病院のK医師にコンタクトを取るべく電話をした。なんと電話口に直接出た医師は「今からすぐに来なさい。」と有り難いことを言ってくれた。診察日でも診察時間内でもなかったが、不安でいっぱいだった私にとっては神の声のようでもあった。仕事を切り上げ、則裕と待ち合わせて一緒に行ってもらった。
触診の結果、すぐに手術する病院を紹介された。細かい検査をしなくてももう癌であることを認めていた。大きさは3.5cm。大きいのでまず抗ガン剤の投与をしてから手術ということになるかもしれないと言われた。すぐに手術病院に電話した。電話の先では、受付時間は終わっていると言われたが、K病院のK医師の紹介である旨告げると、予約を受け付けてくれた。この点も可及的速やかに行われたわけで、幸せであったと思う。
そうして、新たに紹介された医師のもとへ行った。やや遠いところ(自宅からだと概ね2時間近くかかる)にあるが、この医師は先のFさんが手術を受けた医師である。彼女の弁によると「魔法の手」の持ち主らしい。
大勢の女性の待つ待合室にびっくりしながら、まず超音波の検査。最初の病院の超音波は胸に強く押し当てる形式だったが、この病院のは皮膚表面を動かすだけだ(あの押しつぶされる不快感はない)。器具が上半身を丁寧にくまなく、なめるようにはっていく中で、新たに小さな痼りが発見された。また?そんなに早く転移して行ってるの?不安は増長されたが、口に出して聞くのが怖くて沈黙のまま、次の検査へ。今度はマンモグラフィー。乳癌検査と言えばこれというくらい一般的な検査。乳房を引っ張っていろんな角度からレントゲン写真を撮るのだ。これは痛かった。この日ずっとこの検査の時の痛みが残った。
そして医師の診察。やはり3.5cmの大きさだそうだ。このくらいなら、抗ガン剤を使わないですぐに手術ができるということだった。が、新たな小さな痼りが気になるので、さらに日を変えてMRIの検査をするということになった。
そのMRIは、強力な磁力を使って行うので、金具類はいっさい身につけてはいけないというもの。手の甲から造影剤を注入しながらの検査で30分くらいかかった。機械が動いている間は耳元で工事現場のようなうるさい音のするものだったが、痛みを伴うものではなかった。
そして、いよいよ入院の日が決まった。
4.入院で準備したこと(1998年5月13日)
病室は個室。1日22000円也(注意:上記時点での値段)。なので、必要な物はほとんどそろっている。何しろ風呂(ユニットバスとウオシュレッド付きトイレ)に簡単なキッチンまでついているのだ。茶碗も箸もティッシュペーパーも洗面用具も、本当に何もいらないというほど整備されている。それでも、絶対に必要なのは大型のバスタオル。手術当日に私を移動させるために体の下に敷いて使うらしい。パジャマは複数で。
あとは個人的な趣味に関した物で、自分で必要だと感じた物を用意すればいい。私は、パソコンとデジカメとMDと少しの本を持っていった。
ホテルみたいだ、となるべく気分を高揚させるように考えた。長いことよく働いたから休養に来たのだと考えるようにした。ここでどのくらい過ごすのか、一応診断書では1週間くらいなのだが。
さてお知りになりたいであろう手術の費用だが、本文を見ていただくことで勘弁していただこう。なお入院時の補償金は1日の個室の料金にも満たないものだった。入院費用について一言だけ言えば、大金を病人(私の場合は則裕が総てしてくれたが)を持ち歩かなければならないのはつらいところだ。クレジットカード等が効くような法整備はできないものかと思った。
5.手術の日(1998年5月13日〜5月15日・ドキュメント手術)
入院した日に、またMRIをした。どうも小さな痼りのことがはっきりせず、医師としては気になるらしい。そのあとアレルギーテスト。この日はこれで終わり。退屈な夜だった。
次の日にはCT検査。これも手の甲から造影剤を入れながらの検査だった。CTは静かな機械だった。10分程度で終わり。そのあと明日の手術についての説明があった。明日の1番ということを聞いて、もうあきらめた。しかし、まだこれは夢ではなく事実なのだという実感はあまりなかった。この日は睡眠薬を手渡された。睡眠不足が体力の消耗につながることを防ぐためだろうか。が、やはり熟睡はできなかった。
とうとう手術の日。体温がやや高め。やはり興奮しているのだろう。朝のうちに麻酔医が来て今日の手順を説明していった。が、まだ実感はない。なのに事実だけはどんどん進んでいく。まず薬を飲まされた。安定剤と吐き気止めとのこと。しばらくすると頭がぼんやりしてきた。そんなところへ、来なくてもいいよと言ったのに、則裕が来てくれた。刎頸の友が来てくれたような嬉しさがあった。正直心強かった。
手術着に着がえてストレッチャーに乗ると、肩に注射をされた。これはすごく痛いと聞いていたが、何も感じなかった。先ほどの薬が効いているせいかもしれない。何しろ看護婦が、「あらまあ、よく効いていますねえ。」と感心するほどだったから。その後のことは覚えていない。何だか、動けますかと言われてストレッチャーから手術台へは自分で動いたような気がするのだが。
則裕の声で意識が戻ったとき、まだ手術前だと思っていた。もう総て終わったと聞いて、あっけなかったように思った。が、後で聞くと、朦朧とした意識の中で則裕に無理難題を吹きかけていたらしい。
しばらくして気分が落ち着いて、頭もはっきりしてくると普通に話し、ちゃんと食べれば回復が早いという妄信に近い物があって無理に食べたということもあるが、普通に食事をすることもできた。勿論自分の足で歩くこともできる。盲腸の手術の時の方が痛みも残って苦しかったような気がする。手術の日に夕方には1回目の抗癌剤投与。1回目ということで吐き気などまだ何の影響もでていない。
則裕は9時過ぎまで付き添ってくれた。家に着くまで2時間近くかかることを思うと申し訳ない。
6.退院までの経過(1998年5月16日〜5月24日)
手術の次の日に、なんともう外出した。手術後の乳房の形を整えるためには、ワイヤー入りのブラジャーがいいと医師に言われたので、近くのスーパーまで買い物に行ったのだ。それからは連日外出した。私のおやつを買ったり則裕の食事を買ったりという目的の他に、気分転換という意味もあった。本当に入院患者?と、自分でも不思議なくらいだった。痛みもないし、吐き気もないし、普通の人と変わらない。ただ、気分的にはショックが残っていて、なかなか好きなプロ野球も見る気になれなかった。則裕がいる間は結構元気に振る舞うことができるのだが、夜帰ってから一人になるといろいろと考えることがあって落ち込んだりもした。くだらないことを考えないためには眠ることが一番と、よく眠った。そしてよく食べた。とにかく食べれば治りが早い、と信じているのだ。二度目の抗ガン剤投与の後も、しっかりと頑張って食べた。
そして退院の日を迎えた。久しぶりの我が町。長い間留守にしていたような気がしなかった。ちょっとそこまで出かけていたような感じだった。だが、微妙に違う。町の臭いが違う。鼻になじまない、町全体がいやな臭いがした。
7.リナック(放射線)療法(1998年5月27日〜6月30日)
温存療法は、その後に放射線治療が待っている。病院はK。自宅からは電車で1本、うまく行けば30分程度で着いてしまう、通うのには便利なところだ。
始めに看護婦から下着は柔らかいもので、皮膚を刺激しないものがよいとのこと、患者だけれども病人ではないので、好きなことをたくさんやって明るく毎日を過ごすこと、決して落ち込むようなことがあってはならないなどの考え方について、詳しい説明を受けた。その後、放射線を当てる箇所に赤い線で印を付けた。これは治療が終わるまで消してはいけないということで、この後結構気を遣うこととなった。
放射線は隔離室で分厚いドアの向こうにある。当然といえば当然だが厳重な部屋だ。が、その分検査技師は明るくて、こちらの不安を少しでも軽くしてくれるように気軽にいろいろと話しかけてくれる。おかげで何回か通ううちにこちらも軽口を交わせるようになった。
そして、何よりここで良かったことは、他の患者さん達と友達になれたことだ。いろいろと自分の症状を話したり、先輩に聞いたりできたことで、不安が少なくなっていったことだ。戦友といってもよいこの人達の存在のおかげで自分の気持ちも吹っ切れたような気がする。「なってしまったことはしょうがないですからね。これからのことを見ていきましょう。」という考えに傾いていくことができた。
リナック療法は(たぶんほとんどの場合私と同様だと思う)月曜から金曜日の5日間を6週間合計30日行った。
8.抗癌剤(1998年5月15日〜7月17日)と副作用
リナック療法と並行して抗ガン剤も投与した。抗癌剤は手術直後、私がまだ朦朧としている状態で第一回目が開始された。抗癌剤は各回3種類投与された。各回と書いたが、2回で1セットになっており、これを1ターンという表現をしている。1ターンは1週間で、つまり最初抗癌剤を投与すると次週の同じ日にもう一度投与して1ターンが終わる。次のターンまでは、3週間あける。何ターンやるかは本人の希望次第なのだろうけれども、私の場合は執刀医の指示に従って3ターンやった。
本当に抗癌剤には参った。回を進めるに従って、だんだん苦しくなってきた。だらだらしている日が多くなった。が、一番心配していた全脱毛ということにはならずにすんだ。私が経験した副作用は、第一には気もち悪くなることと体のだるさ。これは結局最後の抗癌剤投与から1月近く付き合うことになった。脱毛は髪の毛の量が少なくなる程度で、準備に購入しておいたカツラは結局幸いにも無駄になった。それから舌の荒れ。舌がヒイラギのようになり、口内炎状態にもなった。(2000年8月追記:抗癌剤にも当然ながら種々あるようだ。強いものだと個人さもあろうが1回目から殆ど抜けてしまう場合もある。)
9.ホルモン療法(1998年7月17日〜2003年6月1日)
無事に総ての放射線治療、抗ガン剤投与が終わって、開放された気分になった。スッキリしたと思ったら、ホルモン剤を飲むのだという。そんな話聞いてませんよ、と子供が言うようなことを言ったが、念のため飲み続けるようにとのことだった。毎日1錠。ただリスクとして子宮癌になる可能性もあるということだ。が、それよりも再発を押さえる効果の方がより期待されるとのことだ。
ホルモン剤自体は何の変哲もない普通の薬。これが私の命の綱?と思いながら毎日飲んでいるが、副作用その他、体への変調は全く感じない。
ただ、これは閉経した人が飲むものと思いこんでいたので、やや意外だった。そのことを言うと、どうせすぐに終わるからとのこと。でも、実際には、服飲後も生理があった。びっくりして医師に連絡すると「おめでとう」と軽くいなされた。その程度のことらしく、出血は40日ほど続いたが、やがて終焉を迎えた。(2000年8月追記:ホルモン剤投与はまだ続けている。2年間で止めてしまうケースが多いが、これは執刀医の判断によるもの。・・・2003年6月1日で投与終了。)
10.白血球の減少(1998年7月23日〜8月2日)
手術後2ヶ月も過ぎて、生活も徐々に元に戻りつつあった。後は体力を付けて職場復帰に備えるだけ、ということで、7月末に北海道へ旅行に行った。ところがここに思わぬ落とし穴があったのだ。
体がおかしい。何がといわれてもはっきりと答えることができないのだが、体がだるい、重い、不快感が覆っている。ために、則裕にうまく説明できないまま旅行を続けていたが、とうとうどうにも動きがとれなくなってしまった。熱っぽい。体に震えが来て意識も朦朧として、やっとたどり着いた千歳空港で倒れるように寝込んでしまった。乗り込んだ飛行機の中でもずっと寝通し。でも、熟睡したおかげで羽田空港から自宅までは自力で帰ることができた。が、高熱は薬を飲んでもいっこうに治まる気配を見せず、翌日A医師に連絡を取ると、すぐに病院へ来いとのこと。抗ガン剤を何度か投与した後はこういう危険があるのだという。這ってでも来い、という医師の言葉通り、這い蹲ってやっとの思いで病院へたどり着いた。
すぐに血液検査、その結果異常に白血球が減少しているというので即入院。白血球を増やす注射をして様子を見ることとなった。が、翌日さらに減少。ようやく3日目になると少し増えた。が、まだまだ正常にはほど遠く、隔離状態になってしまった。部屋から出るときにはマスクをすること、頻繁にうがいと手洗いをすることを厳命された。看護婦もマスクをして入室してくる有様だ。が、何故か則裕だけはお構いなし。それからしばらくの間、体温は下がらず、座薬によって下げる日が続いた。その間食事は無し。代わりに点滴をずっとやりっぱなし。後で医師が言うところによると「命を拾ったね。」とのこと、それほど危ない状態だったらしい。
やっとの事で回復傾向が見られるようになり、食事も3分粥まで戻ったところでめでたく退院。この入院はほとんど寝たきりで前の時よりもずっと体力を消耗した。
11.副作用?(1998年10月18日〜1999年4月頃まで)
どうにか元気を取り戻して職場復帰をすると、今度は手先にしびれがでるようになった。始めは自転車に乗っているときに両腕が痺れて、いったいこれは何だろうか?と思ったのだが、そのうちに、何もしなくても痺れを感じるようになった。執刀医にそのことを言うと、抗ガン剤のせいかもしれないし、年齢からくる別の症状かもしれない、この次の診察まで様子を見て、ということだった。則裕がまたインターネットで検索してくれた結果、多分抗ガン剤の副作用だろうと思う。
12.ところで病院やお医者さんはどうしたら探せるの
メールをいただくのはせっぱ詰まっているからで、この種のメールは多い。当たり前の話で、その心情はかつての私も同じ。私の場合は、運良く周りに経験者がいて、それが縁で病院も探せたけれども普通はそうはいかない。もちろん自分が診察や手術やリナックを受けた病院をメールで聞かれればお答えしているが、乳癌患者組織のページがある。乳癌患者が組織する患者による患者のためのページで、それぞれ相談窓口も開いているから、問い合わせると良いと思う(勿論各自の責任において)。
いずれにせよ大切なことは、乳癌の多くは進行の遅いガンだから、発見されたからと言って明日明後日に手術をしなければならないものだということはないということ。勿論早いほうがよいに決まっているが、どうか精神的にも余裕を持って、自らの道は自らの決定でという気持ちで頑張って下さい。(私の場合は極端かもしれないけれど、見たい祭りがあったので、手術の日を延期してもらった?!まぁそれくらいに余裕はある。)
13.現在
ここでいう現在とは2000年8月中旬を指す。手足のしびれはなくなった。抜け毛の心配もなく、髪の毛はどんどんその量を増し長く伸び続けている。運動に関しては、息切れするのを除いては何でもこなせる。走ること、泳ぐこと、トレッキング等すべてOK。体重は入院する頃に戻ってきたが、ただ一つの変化として最近血圧が高くなっている。また、心配された右腕は以前と全く変わらぬように働いている。高くあげること、重い物を持つこと、何不自由なく使えている。傷口は盲腸の後のようにうっすらと残るだけで、触ってみると少し固さは残るが特段どうと言うことはない。ただ、かゆい。このかゆさはリナック療法の影響だろうか、今もとれない。このかゆさが乳がんの手術を受けたことを思い出させる。
14.ありがとう
このページを加筆補正した文章「グッドバイ 乳癌」が、婦人生活社から2002年2月末に発刊された『「乳がん」といわれたら
』)の中の乳癌経験者の文章の中の一つとして取り上げられます。これもこのページを見ていただいている方々のおかげです。ありがとうございます。(2003年2月20日加筆:残念ながら婦人生活社が倒産したのでこの本「乳がん」といわれたら
』も廃刊になってしまいました。)